『アフター・ザ・クエイク』ネタバレ感想・考察・解説。村上春樹の原作らしい不思議な物語について、自分なりの解釈を語っています。

公開当時、時間の都合で観られなくて、パンフレットだけひとまず買っていた作品です。
配信で観ることができました。
村上春樹の原作小説は読んでいませんが、本作と関連するNHKドラマ「地震のあとで」も視聴した上で書いています。
描こうとしている「何か」を捉えようと、想像を巡らせながら観る楽しさはあるけれど、わかりやすい結論や解釈はほぼ与えられないタイプの作品です。
この「投げっぱなしさ」というか「不親切さ」は、村上春樹のお家芸そのもので、ある意味で、原作の再現度が高いと言えます。
本作は、4編のオムニバス形式となっています。
1995年、2011年、2020年、2025年の時制で描かれ、登場人物もそれぞれ違います。
以下、個別に感想を書きました。
あらすじ
1995年、妻が突然姿を消し、失意の中で釧路を訪れた小村は、UFOについての不思議な話を聞く。2011年、家出した少女・順子は、たき火が趣味の男との交流を通して自身を見つめていく。2020年、信仰深い母のもとで「神の子ども」として育てられた善也は、不在の父の存在に疑問を抱く。2025年、警備員の片桐は、漫画喫茶で暮らしながら東京でゴミ拾いを続けていた。そして、人々の悲しみや不幸を食べる“みみずくん”が再び地中でうごめきだした時、人類を救うべく“かえるくん”が帰ってくる。
映画.comより一部抜粋
1995年:喪失

妻の未名が、前触れなく小村のもとを去っていく。
後日、離婚届を叔父が届けにきます。
彼女はなぜ、小村の前から姿を消してしまうのか。
彼女が去る前の数日間、無言で震災の報道を眺める姿から、その予兆は感じるものの、これだという理由は示されません。
別れの手紙には、原因は「(小村が)空っぽで、空気と会話しているようだった」とあったが、わかるようで分からない。
この、作者の頭の中だけにある独自ルールのようなものを説明されている感覚は、いかにも村上春樹の世界だと感じます。
自分なりにこのエピソードの意味を受け止めるなら、小村は、震災により大切な人を失った喪失感を、疑似的に与えられている人だと言えます。
シマオ(唐田えりか)に、小村が妻を亡くしたと誤解されるシーンがあったり、後に彼女とSEXするときに、小村は妻を思い出したりします。
物語の表面上は、小村はある日突然、理由もわからないまま妻から離縁されただけです。
ただ、それは震災により、大切な人がある日突然、消失することと重なります。
さらに飛躍させると、その喪失は、UFOという未知の存在に誘拐されたかのようでもあるのです。
大切なものが唐突に失われると、人は、ぽっかりと心に穴が開いたような気持ちになる。
そして、喪失の実感や悲しみは遅れてやってくる。
村上春樹的なメタファー表現が、間接的に、ときにUFOを描くなど直接的に表現されていました。
面白い試みだと思いつつも、単発の映画として捉えると、村上春樹の作品に馴染みがない人にとっては、もうこの時点で、何がなんだか分からなくなってしまうくらいの摩訶不思議な語りになっています。
(余談)

メインキャストの岡田将生と橋本愛、唐田えりか、北香那の4人が、完全に村上春樹ワールドの住人を体現しており素敵でした。
感情が表に出すぎず、絶妙に生活感がない感じが見事にはまっていました。
2011年:空っぽ

家出少女の順子(鳴海唯)が、焚火が趣味の中年男性(堤真一)と交流する物語。
男性は、1995年阪神淡路大震災で妻子を失い、トラウマに苦しんでいます。
1995年から16年後ということで、彼の子どもが生きていたら、ちょうど順子くらいの年恰好になっているであろうことから、2人の関係は、疑似的な父と娘の交流のように捉えられます。
順子は、自分が空っぽだと感じており、流れていく日常のなかで生きる意味を見失っています。
一方、男性は、震災で自分だけ生き残ってしまったことへの罪悪感に苛まれている。
彼は何度も死ぬ夢を見ますが、その生死の繰り返しは、焚火の火が起こって鎮まるまでの始まりと終わりの繰り返しに呼応しています。
2人が最後に焚火するシーンで、火が燃え尽きようとするところに、順子は新しい流木を追加します。
それは男性に対して、もう少し生きて欲しいと延命を願うようにも見えるし、彼女自身が彼の抱く死の予感に入ることを望んでいるようにも感じられます。
自分は空っぽだと涙を浮かべる彼女に、男性は「いまから一緒に死ぬか?」と声をかけます。
焚火が終わったら死のうと話した後、順子は少し眠ると言って横になります。
ここで順子が「焚火が消えたら起こしてくれる?」と言うのが、一人で死なないでね、私を置いていかないでね、と言っているようです。
最後、この日が2011.3.11であることが明かされるとともに、打ち寄せる穏やかな波のショットで終幕するのは意味深でした。
このあと「あの地震」が起こるわけで、それは2人の関係を揺るがす事態が起こるであろうことも示唆しています。
順子が眠りに落ちる寸前に、男性は「焚火が消えたら、寒なってイヤでも目ぇ覚める」と語ります。
彼女が目覚めるのは、きっと焚火が消えたあと。
男性の温もりが消えたあと、ということなのでしょうか…。
(余談)
順子を演じた鳴海唯は、まさしく役を生きている感じがして素晴らしかったです。
まだかなり若い方だと思うけど、堤真一の相手役として不足なし、でした。今後も注目したい俳優さんです。
順子は家出しただけですが、これもある意味では家族を失ったと言えます。
1章で、岡田将生が嫁に出て行かれたのとは逆の状況になっており、うっすらとではありますが、オムニバス的なつながりがある展開です。
2020年:信仰

宗教二世の善也(渡辺大知)が、本当の父親の正体を求める物語。
彼は自分の父親が誰か知りたがっているが、母親からは「神の子」「お方の子」と言われて育った。
あるとき彼は、自分が生まれる前の母親の性事情を聞かされることで、現実の父親の存在を確信するのだが…。
母曰く、その父親と思しき人物は、産婦人科医で、右の耳たぶが欠けているという身体的な特徴があると言います。
当時、彼は妊娠が分かったときに、母親の不貞を疑って心無い言葉を浴びせました。
母は現実のつらさから逃れるために、避妊を完璧にしていたはずと思い込み、さらには、お腹の子は神の子に違いないと「信じ」ます。
そうすることで、彼女は自分を保ってきたのでしょう。
母が入信している宗教の指導者である田端は、昔から、善也を神の子としてではなく、一人の人間として気にかけていました。
善也にとっても、田端は宗教への嫌悪を超えて大切に思える、母親と並ぶくらいに大切に思っている人物として表現されます。
ところが最後の最後に、田端の口から驚きの告白がなされます。
それは、田端と母親が男女の仲だった可能性について。
ここですべてがつながります。
彼が母親や善也に、ずっと良くしてくれていたこと。
田端が、がんで余命僅かのときに善也に会いたがったこと。
田端が善也のことを、「幼い時から何も変わらない、変わるはずがない」と言ったこと。
でも、善也はそんな事実を認めたくない。
だから、善也は電車のなかで、偶然、右の耳たぶがかけた男性を見かけたとき、その人の後を追いかけます。
しかしそれは、彼が心底嫌っていた母親が神の子の存在を信じる行為と同じです。
受け入れがたい事実から目を背けて「信仰」にすがっているだけなのです。
そんな皮肉的な事実が提示され、物語は幕を下ろします。
(余談)

彼の母を演じる井川遥の迫力はさすが。
清潔感があるのに性的に乱れている、という村上春樹の世界ではお決まりのエロティックな女性像をこの上なく体現していました。
このエピソードでは、彼女が貞淑ではないことが、物語における重要なオチとなっていた点からも、重要な役作りだったと思います。
2025年:心災(しんさい)

冒頭、主人公の片桐(佐藤浩市)は、1995年に歌舞伎町の路上で銃で撃たれた、という事実が示されます。
うっかりすると、この話を忘れて見てしまいそうになりますが、冒頭の事実が大事な情報になっています。
片桐は、路上で銃撃されるまでは信用金庫に勤めていました。
一命をとりとめた彼は、2025年の現在、しがない警備員として生活している様子。
片桐は、信用金庫時代に、貸しはがしをすることで、顧客の人生を数多く壊してしまったことに罪悪感を抱いています。
彼は自分の過去に対して罪滅ぼしするように、ネットカフェに寝泊まりする底辺の生活を続け、無限に捨てられ続ける路上のゴミを拾い続けています。
拾っても拾ってもまたゴミが捨てられる情景は、賽の河原のようでもあります。
そんな男の前に、突如、「カエル君」が現れる。
カエル君は男に「自分たち2人は、かつて東京で起こるはずだった大地震を未然に防いだ」のだと言います。
カエル君とのやりとりの中で、暴力団の話が出てきます。
これは1990年代にあった、銀行と暴力団(総会屋)の癒着的な事件をモチーフにしたものに思えます。
片桐は当時、自らも不正に手を染めていたが、そこから足を洗おうとして撃たれたのかもしれません。
これまでの物語と同様、明確な説明は何一つなされませんが、最後に、カエル君が片桐の「影」である(カエル君は片桐の一部である)ことが、ほのめかされます。
片桐は、カエル君のいるところに帰りたい、とも言います。
この辺りの設定から、ここで言う「大地震」は本物の地震ではなく、「片桐自身の人生を揺るがす何か」のことだと受け止めるのが自然に思えます。
あるいは、カエル君と対になるものとして描かれる「みみず君」の存在を起点に考えるなら、人々の悲しみや不幸を食べる「みみず君」もまた片桐の一部だと言えます。
彼の心が追い詰められて限界を迎える(それを大地震と表現している)ときに、「カエル君」が現れるという構造は、心の中の善悪の対立の要素も備えており、銀行の不正に加担していたかもしれない当時の片桐の状況とも合致します。
そんな風に考えると、冒頭の片桐のうだつの上がらない様子、特に客から罵倒される姿が描かれた理由にも必然性が感じられてきます。
2025年の片桐は、自殺や犯罪に手を染める一歩前まで精神的に追い詰められていたのかもしれません。
ところで、カエルって、あまり良いたとえに使われる生き物ではありませんよね。
最後に片桐が発した「帰りたい」という意思表示は、たとえば、現在のみすぼらしい自分の在りようを認めて、そこに帰りたい(逃避から現実に帰りたい)という意味合いにも思えます。
エピローグで、またいつものようにゴミを拾う片桐に「まだやってんの?」と同僚が声をかけますが、彼は「片桐は、まだやってます」と朗らかに応えます。
これは、物語の序盤で、同じ同僚にネットカフェ生活について尋ねられたときに、話をはぐらかしていた片桐の態度との対比になっており、彼が、カエル君との非日常的な体験を経て、いまの自分の生き方に少しだけ胸をはれるようになったことを示していると思えました。
この物語の終わり方は、まさしく「村上春樹の得意技」という感じです。
超常的な世界に迷い込んで、産道を思わせるような通路を主人公が進み、そこで不思議な体験を経て、現実に戻ってくる。
世界は変わっていないが、自分自身が変わったことにより、活路が開かれた予感を手にする、というわけです。
(最後に一言)
震災の前後で喪失感を抱える人々が描かれる点が、各章に共通しており、それを横串とすることで、ギリギリ映画としてまとまっていたかなぁといったところ。
実質的には、4つの章を個別の物語として楽しむものと考えて良さそうです。
ただ、最後の片桐の物語の終わり方を経ると、途中の1~3章のバッドエンドっぽい雰囲気に反して、登場人物たちは悲しみや生きづらさを乗り越えて、前に進み続けたのだ、と解釈して良いのかもしれないと思えました。
映画としてはかなり分かりづらく不親切。
配信で何度か観直せたから納得できたところも多いので、エンタメとしては、ちょっとどうかなと思う部分も多々あります。
ただ、物語のなかで示される人間観には個人的に共感できるところもあって、わかりにくいの一言で、切って捨てるには惜しい作品でもありました。