映画『愛されなくても別に』ネタバレ感想・考察です。江永だけが、宗教に惹かれなかった理由など物語を考察します。

『愛されなくても別に』、観ました。
…いい映画です。
そして、第一印象と、観終わったあとの感想が180°変わる映画。
メインビジュアルのポップな色づかいと尖った印象から、もっとアングラで刺々しい物語を想像していたけど全然違いました。
不遇な境遇から立ち上がり、自分の人生を生き始めようともがく主人公たちの日常が、熱を帯びながらも淡々と描かれます。
メッセージ性の強い映画ながら、まったく説教臭さはありません。
観る人の心に、優しく柔らかな光が差し込むような、ひとすじの希望を与えてくれる物語でした。
あらすじ
大学生の宮田陽彩は浪費家の母親に代わって学費と家計を稼ぐため、学校以外のほとんどの時間をコンビニでのアルバイトに費やしている。
母親からは暴力も暴言もないが「愛している」という言葉で縛られ、緩やかな絶望のなかで人生に期待することなく生きてきた。
そんなある日、同じコンビニで働く派手な見た目の同級生・江永雅の父親が殺人犯だという噂を耳にする。他の誰かと普通の関係を築けないと思っていた陽彩と雅の出会いは、それぞれの人生を大きく変えていく。
映画.COMより一部抜粋
全員、毒親の子
本作には、「宮田陽彩」「江永雅」「木村水宝石」の3人の女性が登場します。
彼女たちは、それぞれ境遇はことなるけれど、全員が毒親に人生を狂わされている点が共通しています。
宮田陽彩

母親から金銭的な搾取を受けている。
お金にだらしない母のめんどうをみるために、大学に通いながら家事をこなし、週6日で昼夜問わず働く生活を送っています。
江永雅

父親が殺人罪で逮捕された過去を持ちます。
さらに父親からは性暴力を受け、母親からはそのことで嫉妬され、体を売って金を稼ぐことを強要される。
木村水宝石

過干渉の母親に人生を支配されている。
2時間おきに電話がかかってくるありさまで、アルバイトや友人との交流など、学生らしいキャンパスライフを送ることができずにいます。
みんな違って、みんな“不幸”
客観的に見ると、彼女たちの日常は異常でこの上ない不幸に見えますが、それでも時間は淡々と流れていきます。
“異常な家庭環境”も長く続けば、それは当事者にとって“日常”となっていくのです。
彼女たちの三者三様の家庭事情が描かれるなかで、毒親の問題の根深さに気づかされます。
特に、序盤の陽彩の家庭事情が描かれるパートは、なかなか観るのがしんどくなる苦しい時間です。

母親は陽彩に、口先だけの「愛してる」という言葉を吐きながら、金銭的な搾取を平然と続けます。
観客には、「愛してる」という母の言葉は、明確に呪いだと感じられますが、ここでは「ふざけるな」という言葉を飲み込みながら、厳しい生活に耐える陽彩を見守り続けるしかありません。
毒親の洗脳に対抗できるのは、より強い洗脳?
木村水宝石は、コスモ様なる教祖が運営する新興宗教を信奉しています。
母親以外の人間関係を知らない彼女にとって、宗教が救いになっているのです。
大学では同年代と上手く話せない彼女も、宗教施設のなかでは老若男女問わず、信者たちと打ち解けて自然な会話が行えているように見えるのが切ない。
過干渉の母に生活を支配された彼女にとって、それとは異なる別の何かに染まることが、母から解放される唯一の手段だったのかもしれません。

大学でノートを借りようとした陽彩に対して、木村の母が水宝石にしているような潔癖な価値観の押し付けを、水宝石自身も陽彩に対して無意識にやってしまっているところに、毒親が子に与える影響の恐ろしさが垣間見えます。
江永だけが、宗教に惹かれなかった理由
木村水宝石に連れられて、宮田と江永は、例の宗教施設へと足を踏み入れます。
施設は、侘び寂びある古風な日本的な建物で、信者たちは朗らかで礼儀正しい。
出される食事も、健康的で美味しそう。
掃除をする気力がなく自宅が荒れており、レッドブルとカロリーメイトが主食だった陽彩の生活ぶりからすると、宗教施設での生活のほうが人間的な暮らしに見えてしまいます。
この対比は明らかに意図的な演出ですが、観るものに無言の問いを突きつけてきます。

宗教のほうが、まだマシじゃないですか? と。
教祖と呼ばれる女性は、相手の心の隙間を埋めるような会話術を備えた人物。
話し口調に宗教っぽさを感じるものの、彼女たちの母親に比べると、話の内容自体は至極真っ当に感じられます。
陽彩はその会話術に取り込まれそうになりますが、あわやというタイミングで、江永が介入し現実に引き戻されます。
(木村水宝石には江永のような友達がいなかったから、宗教にハマってしまったのかもしれませんね…)
さて、ここで江永だけが教祖の言葉に反抗することができた理由についてです。
想像ですが、江永は、父の犯した罪と父と性的な関係を持った過去に罪悪感を抱いており、自分自身を罰したいと感じていたのだと思います。
父親が犯した事件の被害者遺族の男性に首を絞められたとき、あまり抵抗しなかったのも同じ理由かもしれません。
彼女は「救われたい」という願望を持てなかったからこそ、教祖の言葉は彼女に響かなかったのではないでしょうか。
私らしい人生、私なりの家族の形
この作品では「水」が象徴的に描かれます。
水族館、自宅の水槽、ミネラルウォーター、川辺など。
宮田陽彩にとって川に飛び込む行為は、生まれ変わりや身を清めるような意味合いを持つのかもしれません。
1回目は宗教施設で教祖に取り込まれかけたときの帰り道。2回目は母との対峙を終えたあと。

2回目の川辺での入水シーンでは、江永も水に入ります。
これは陽彩と家族になれたことの象徴のように感じました。
水族館で、江永が水槽越しに眺めていた“幸せそうな家族像”。
見ているだけだった家族という幸せの形に、彼女が勇気を出して手を伸ばした瞬間だったのではないかと感じます。
陽彩は家庭生活のトラウマにより他者と触れ合うことができませんでしたが、このとき彼女は江永の手を握ることができました。

二人がそれぞれに過去を受け入れて消化することで、新しい家族として出発することができます。
二人の関係は性愛ではありません。しかし、友情という言葉では足りない深い関係です。
親や異性から“愛されなくても別に”いい。
二人の関係からは、そんなものとは無関係に、自分らしい人生を歩んでいくことはできるという、しなやかで力強いメッセージが伝わってきます。
20歳になった陽彩が、バイト先のコンビニでお酒を買うシーンは、何気ない日常のはずですが、彼女の辛かった過去への卒業式のようでもあり、新しい人生の始業式のようでもあり、とても尊いものでした。