『私たちが光と想うすべて』のネタバレ感想・解説です。インドで生活する女性の仕事や結婚、恋愛など社会的なテーマと映像表現について掘り下げて解説しています。本作は、カンヌ国際映画祭でインド映画として初めてグランプリに輝いた作品でもあります。

素晴らしく興味深い作品でした。
まず、この事実を伝えたいと思います。
その上で、インドという国に詳しくない人にとっては、本作を難解な“アート映画”のように感じてしまうかもしれません。
けれど、本来この映画が発しているメッセージは、とてもシンプルで、そして切実なものです。
難しく考える必要はないし、安易に共感できるようなものでもない。
経済ニュースからは伝わってこない、こんな現実がインドにあるかもしれない――。ただ、それを知るだけでいいのです。
- 経済発展の著しい、インドのリアルを描く
- 背景知識がないと、状況理解が難しいところがある
- 言語の壁を越えた、秀逸なショット
- インド社会は、女性からあらゆるものを奪い取る
- 社会は変わらないが、自らが変わることで、人生に光(希望)を見出すことはできる
- インドの実情を訴える、ドキュメンタリー的な目線も感じる作品
経済発展の著しい、インドのリアルを描く
冒頭からそのビジュアルに圧倒されます。
道路を走る車上から、ムンバイの街並みが映し出される。
ムンバイは日本で言うと東京や大阪のような大都市ですが、とてもそうは思えない荒れた町並みと気だるそうな人々の景色が流れていきます。
貧富が共存している様は、日本で言うと「大阪の西成と天王寺」の関係に近いと感じました。
そんな街並みに合わせて、男性の独白が聞こえてきます。
「いつかムンバイを離れる日が来るから、長く住んでいても故郷とは呼べない」「どの家にも一人は、ムンバイ在住の親族がいる」…
ドキュメンタリー作品のようなタッチで、物語は幕を上げていきます。
(パンフレットによると、この声は、実際にロケハン時にとった、一般人のインタビューを使っているようですね。驚きです)
肝心の物語は、ルームシェアをする女性“プラバとアヌ”の生活にフォーカスされていきます。
現地の観客にとっては、特に発見のある内容ではないのかもしれませんが、冒頭では、電車やバスを使って通勤する様子や彼女らの働く病院の様子が描かれています。

インドの通勤は大混雑のイメージがあったのですが、そんなこともないようです。
ただ、パンフレットの解説を読むと、どうやら彼女たちは通勤ラッシュを避けるために人の大きな流れとは逆方向から通勤できる場所に居を構えている設定のようでした。
背景知識がないと、状況理解が難しいところがある
上記の通勤の様子ひとつとってもそうですが、現地のリアルを知らない者にとっては、映像を見ながら適切なタイミングで適切な理解をすることが難しいです。

たとえば、彼女たちの職場が病院であることすら、一瞬、よくわからなかったりします。
なぜかというと、病院はお世辞にも清潔とは言えず、雑居ビルの一室や古びたオフィスのように見えます。
プラバの服装も、日本のようなひと目で看護師とわかる象徴的なものではありません。
主人公たちが話す言語は、ヒンディー語ではない
あるいは、彼女たちが話す言語です。
マラヤーラム語というらしい。ヒンディー語じゃないのです。
インド社会においては、話す言語が何かで出身や貧富などが、何となく推測できるようです。
日本の映画で言うと、きつい方言だったら田舎から上京してきた人だなと一瞬でわかったりするようなあれですね。
で、マラヤーラム語を話すということは、インドの南の出身だということになり、南の出身の看護師は地位が高いらしい。なるほど!って、そんなの分かるかい!って話ですよ(笑)
当然、劇中でそんな当たり前のことは一切説明されません。でも、この映画はそういう事情は当たり前にわかっているつもりで描かれているのです。
こういった異文化のハードルが大小たくさん積み重なって、状況理解の解像度は、おそらく邦画を観ているときの数分の1になっていると思われます。
それでも、まったくわからん、ということはないです。普通に観れます。
本来なら腑に落ちるべきところで、「え、なんで?」とおいていかれる感覚は何度かありましたけど、観終わった後の結論としては、「そこまで細かいところを気にしなくても大丈夫」です。
本作では、ディティールの理解を心配するような、ひねくれた感情は描かれていません。
描かれるのは、男女の社会的な役割分担や結婚観、宗教観、経済格差など。
単純なのに解決できない切実な問題が、物語全体に横たわっています。
彼女たちの生活を通じて、そのやりきれなさを感じることは十分にできます。
言語の壁を越えた、秀逸なショット
もちろん、文化の違いを越えて伝わってくる秀逸な映像表現もありました。
たとえば、通勤途中で車内のポールにつかまるプラバの姿。
これがメリーゴーランドに乗っているかのようなショットとなっているのは意味深でした。

その映像は、実際のメリーゴーランドと違って、上下の動きはありません。
ムンバイでの日々は、彼女にとって平坦な毎日がグルグルと繰り返すようなもの、ということなのでしょう。
似たカットが物語の終盤でも登場しますが、こちらは冒頭の映像との対比で、この場にとどまりたいという想いを想起させてくれます。

インド社会は、女性からあらゆるものを奪い取る
主人公のプラバは既婚ですが、家の都合で結婚させられている状況です。
しかも夫はドイツに出稼ぎにいっており、もう1年以上会っておらず、音信不通となっている。
彼から不意に家電(炊飯器)が送られてくるシーンが描かれていますが、正直、理解できません。

夫なりに彼女にいい暮らしをさせてやろうということなんでしょうか。
事実上の結婚生活は破綻しているように見えました
(が、インドではそんなに珍しいことではないようです)
そして彼女を苦しませるのが、実は身近に、プラバに想いを寄せてくれる医者の男性がいることです。
彼は彼女に想いを込めた詩をプレゼントします。
これは現夫との対比になっているのでしょう。
現夫は、炊飯器という経済的な支援はしてくれるが、彼女の孤独を癒やしてくれない。愛をくれない。
でも、医者の男性は彼女に愛を与えてくれる。

プラバは、本心ではこの男性に惹かれています。
でも、封建的なインドの価値観の中で生まれ育ってきた彼女は、彼の愛を受け入れることができません。
これが日本だったら簡単でしょう。
離婚してこの人と付き合えばいいだけです。
ところが、家同士が決めた結婚を、プラバ個人の想いで破棄なんてできません。
してはいけないというマインドブロックが、インドの女性には刷り込まれているのです。

同じように、ルームメイトのアヌについても複雑な事情が描かれます。
彼女の場合は、好きになった男性がイスラム教徒という設定です。
日本で言うと、相手が新興宗教を信じてるくらいの感覚でしょうか。
交際が親族から反対されるレベル感です。
このように、封建的で多様性を認めないインド社会のなかで、女性たちの人生が抑圧されている様子が徹底して描かれます。
これが本作のテーマです。
上記の点について、パンフレットの監督インタビューでは、「結ばれることのない愛」が主要なテーマの一つだと語られていました。
同時に「インドにおいて愛は極めて政治的」とも。
ドラマ的な物語の受け止め方としては、監督の言葉のほうがしっくり来るように思います。
文化の壁があってわかりにくさはありますが、この辺りのテーマに関する描写は素晴らしいと感じました。
彼女たち自身に直接関係することだけでなく、たとえばパイプカットを希望する家庭の事情(政府方針で子作りは抑制されているが、SEXはしたいという夫の欲望)を彼女たちの仕事風景のなかでさりげなく描くなど、日常レベルで女性の尊厳が軽んじられているさまがグロテスクに描かれています。
社会は変わらないが、自らが変わることで、人生に光(希望)を見出すことはできる
物語の終盤で、彼女たちは都会を離れ、一時、海辺の田舎町に滞在することになります。
そこでそれぞれの人生と静かに向き合う体験をすることで、彼女たちを縛っていた古い慣習から解き放たれるのです。
ただ、それはあくまでも精神的なものであって、彼女たちのおかれた現実の状況に、劇的な変化はありません。
プラバは「運命からは逃れられない」と言いました。
そして、運命からは逃れられないが、そこから心を解き放つことはできるというのが、本作が提示してくれる一つの結論です。
ギラギラした都会の輝きから距離を置き、田舎町の食堂で柔らかな光に包まれながら微笑む彼女たちの姿は尊く映ります。
彼女たちのいる海辺の食堂が、ロングショットで映し出されるラストシーンは、そこにひと握りの希望の光が灯されているかのようです。
インドの実情を訴える、ドキュメンタリー的な目線も感じる作品
静かに淡々と、客席に向けて問いを提示し続ける作品でした。
映画を観たというより、異国の世界を体験した感覚に近い。
本作について、監督は最初から世界に向けて“伝える”意図で製作をしていた気がしています。
そこまで露骨ではないにしても、インドの実情を知らない外国人に、その現状を伝えることを目的としているように映るのです。
インドの現地の人向けに作られたとは到底思えません。
なぜならインドで生活する人にとっては、あまりに“当たり前”の息苦しい現実が描かれる映画になっているからです。
(たとえ最後に、現実からの一時的な精神的解放が描かれるとしても)
経済を優先するあまり、バランスを欠いた政策が続いている現体制への批判も、そこには僅かに込められているのかもしれません。