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『秒速5センチメートル』ネタバレ考察:原作の大胆なシン解釈により、現代的な物語として生まれ変わった傑作映画

『秒速5センチメートル(実写版)』ネタバレ感想・考察です。原作アニメとの違い(どのように改変されたか)が、物語のテーマにどんな影響を与えたのか解説しています。

実写『秒速5センチメートル』ネタバレ考察

言わずと知れた、新海誠監督の名作アニメの実写化作品です。

原作は解釈の幅がある作品で、同時にスカッとするようなお話でもなかったため、それなりに人を選ぶ作品となっていました。

本作では、実写化にあたり、原作の大胆な解釈と改変が行われ、より多くの人に受け入れられやすい現代的な物語に生まれ変わっていたと思います。

 

ポイントは、大きく以下の3点です。

①構成の変更とオリジナルシーンの追加

②恋愛要素の削ぎ落としと、浮かび上がる現代的テーマ

③受動的な結末から、よりポジティブな能動的結末へ

 

以下、およそ①~③の流れで解説していきます。

 

※アニメ版の感想記事もあります

あらすじ

1991年、春。東京の小学校で出会った遠野貴樹と篠原明里は、互いの孤独に手を差し伸べるように心を通わせるが、卒業と同時に明里は引っ越してしまう。中学1年の冬。吹雪の夜に栃木・岩舟で再会を果たした2人は、雪の中に立つ桜の木の下で、2009年3月26日に同じ場所で再会することを約束する。時は流れ、2008年。東京でシステムエンジニアとして働く貴樹は30歳を前にして、自分の一部が遠い時間に取り残されたままであることに気づく。明里もまた、当時の思い出とともに静かに日常を生きていた。

映画.comより一部抜粋

原作アニメとの構成の違い──“時系列”から“回想”への再構築

原作のアニメが63分。映画は倍の121分。

原作アニメは、貴樹の小学生、高校、社会人と時系列にそって3章にわけて描かれていたのに対して、映画版では社会人になった貴樹の視点から過去を振り返る形に変更されており、非常に映画らしい脚本となっていました。

 

尺が増えたぶん、映画オリジナルのシーンが描かれることで、大人になった貴樹と明里の心情が、より明確に、増幅されて描かれていたように思います。

端的に言って、原作モノとしては最高峰の完成度だったと思います。

 

ロケットの打ち上げや貴樹と花苗が立ち寄るコンビニ、

積雪で立ち往生する電車、

貴樹と明里が再開する岩舟駅の待合室など、

再現すべきは再現しつつ、原作ではほとんど描かれなかった明里の社会人としての日常や貴樹の彼女、水野理紗とのエピソードなど、2人の人格を浮かび上がらせるためのシーンが大幅に追加されていました。

 

中でも、書店や科学館のプラネタリウムでの、2人のニアミスには心揺さぶられました。

あのすれ違いのシーンがあるからこそ、結末は分かっているはずなのに、(奇跡よ起これ!)と、約束の日に、桜の樹の下に向かう貴樹を応援したくなってしまったのだと思います。

 

プラネタリウムのフライヤーの中に貴樹の名前を見つけて、「貴樹くんが大丈夫だった」ことに安堵する明里と、明里のあの日の言葉を想い出して「自分はこの先も大丈夫だ」と希望を手にした貴樹。

2人の心が通じながらも遠ざかっていく結末は、切なく美しいものでした。

原作から「恋愛要素」を削ぎ落としたのは英断。実写版を傑作に引き上げたのは、この改変あってこそ

前述した、目に見えてわかりやすいシナリオ構成の変更だけでなく、実は本作にはコンセプトレベルでの大きな改変がほどこされています。

原作アニメが作られた当時ほど、恋愛が重要視されなくなった世の中の変化に合わせて、ある意味で原作の「核」的な要素であった「恋愛要素」が、実写版では大胆に削ぎ落とされたのです。

 

最も象徴的だったのが、貴樹が終盤に語った、「最後にもう一度だけ、明里と会って何でもない話がしたかった」という願い。

これは実写版独自の解釈なんです。

原作ではここまで明確に、貴樹の心情が明示されることはなく、観た人の解釈に委ねられる展開となっていました。

 

これは貴樹の抱えていたものが、恋愛的な未練ではなく、純粋な人とのつながりであったことを示す描写です。

彼は永い年月をかけてようやく、子供の頃には表に出せなかった「仲の良い人と離れるのが寂しい」という感情を吐き出せたのだと考えられます。

 

そして貴樹が、子供の頃に封印していた自分の感情を受け入れて、自己開示ができるようになった瞬間が、最後のプラネタリウムでの小川龍一(吉岡秀隆)との会話であり、その少し前の輿水美鳥(宮﨑あおい)との居酒屋での会話なのだと思います。

輿水美鳥は、そういう感情を笑って誤魔化さなくていいと、あのシーンだけやたらと説教臭いことを言うけど、あれこそが、本作を通じて届けたかった、秒速5センチメートルの現代解釈を支える背骨でもあったと感じました。

 

これは余談ですが、先生とのシーンではお酒の勢いで話していたのが、最後はお酒の力も借りることなく、小川さんに真正面から自分の想いを伝えられていたのは、貴樹の成長の足跡が浮かび上がる心憎い演出でしたね。

具体的に、恋愛要素はどのように削ぎ落とされていたのか?

高校時代に貴樹が打っていたメールが、アニメ版の「送る宛のないメール」から「そのときに感じたことのメモ帳」へと改変されていました。ここは原作では、明里への想いを引きずったものとして描写されていました。

 

小学校で、2人が図書室で本を読んでいる時も、アニメだと「付き合っているのか」と周囲にからかわれますが、映画では、貴樹の将来の夢についてからかわれる内容に置き換わっています。

これも別に、原作通りでいいのにわざわざ変えているのは、2人の関係を恋愛的なものとして見せすぎたくない意図があったのだと推察します。

 

鹿児島に引っ越したあとに、2人のメールのやりとりがまったく描かれなくなるのも原作とは異なります。

原作アニメでは、2人が手紙を送り合う頻度が、徐々に落ちていく様子が明示されています。

 

そして、極めつけは、上記したラストのプラネタリウムでの貴樹の独白です。

明里に会いたかったのは、「もう一度だけ、何でもない話がしたかった」からと、彼の苦悩が、必ずしも恋愛感情によるものとは言い切れない結論が提示されます。

(もちろん、会って話した先には、恋が生まれる可能性もあるのかもしれませんが、より手前に切実にあったのは「ただ話すこと」だったのです)

 

本作では2人の恋愛はあくまでも、あの岩舟駅で再開した1日の、幼き日の想い出として描かれています。

大人的な恋愛感情としては描かれていないのです。

 

さらに言えば、元上司の窪田邦彦(岡部たかし)と貴樹の関係も、恋愛テーマではないことを示すために意図的に描かれたエピソードに思えます。

これは、彼が人と距離をおく(深入りしない)のが、異性関係に限らないことをダメ押し的に描くためでもあったのではないでしょうか。

 

また、劇伴の使われ方にも、本作のメッセージが、恋愛ではなく人との関係そのものがテーマだと匂わせる痕跡は多くあります。

 

たとえば、米津玄師のテーマ曲『1991』には「1991 僕は瞬くように恋をした」と、まさしく過去形としての恋が歌われています。

また、挿入歌のBUMP OF CHICKENの『銀河鉄道』の歌詞も、恋愛ではなく人生の応援歌のようなニュアンスが強いです。

「人は年を取る度 始まりから離れていく 動いていないように思えていた 僕だって進んでいる」と、貴樹の成長や一歩踏み出す勇気と重なるような歌詞になっています。

 

さらに、アニメ版のテーマソングである山崎まさよしの『One more time one more chance』は、恋愛的なメッセージの強い歌ですが、本作ではこの歌を、貴樹と明里に重ねるのではなく、澄田花苗(森七菜)がカラオケで流して貴樹に聴かせるという演出をしています。

これは花苗から貴樹に向けた、告白の前哨戦となっています。

あの場面では、曲を貴樹に聴かせる=「東京に好きな人がいますか?」と、貴樹に対して、恋しているかを問いかけるようなニュアンスとして扱われていたと感じます。

 

いずれにしても、貴樹と明里の関係を、遠距離恋愛として描くことを巧みに避けた脚本になっていると感じられました。

描かれたのは恋愛感情ではない──、「他者とつながることへの渇望」

本作では、恋愛的な要素を意図的に抑えて、主人公が幼少期に繰り返し経験した「転校」をルーツとする「人とつながり、その後、別れることに対する寂しさ」「他者とつながることへの渇望」を描く物語として解釈し直されています。

 

小学生の頃、すでに転校を何度も経験していた貴樹は、明里の抱える孤独感に共感し、手を差し伸べます。

同じ辛さを共有する者同士の連帯感や絆が生まれ、それは友情へと発展していきますが、中学進学のタイミングで明里は転校することに…。

貴樹はまた、別れの辛さと向き合うことになったのです。

 

転校が決まったことを泣きながら電話で話す明里に、貴樹は「もういいよ」とそっけない返事をします。

しかし、この事実こそが、別れに対する貴樹の恐れを映し出していると言えるでしょう。

 

傷つきたくないが故に、貴樹は人間関係に執着しないという処世術を身に着けてしまっていたのだと思います。

その証拠に、転校から半年後に明里から手紙が届くまで、貴樹からは何のアクションも起こしていません。

 

貴樹の転校が決まり、岩舟駅で再開する日にも、彼の手紙には「好きでした。さようなら」と、好意が過去形のものとして書かれています。

彼女が栃木に転校になったときと同じく、彼は自分の転校が決まった瞬間に、彼女との関係の終わりを受け入れてしまっていたのです。

 

ただ、岩舟駅での1日限りの恋は、彼にとって鮮烈で、他者と心が通じ合うことの喜びを知ってしまった日でもあったのだと思います。

ただ、まだ幼かった貴樹には、その複雑な感情を自覚することが難しく、初恋のような何かとして理解するしかなかった。

 

自分の本当の気持ちを自覚できなかったからこそ、高校時代の彼は遠くを見つめているように見えたし、社会に出た彼は切実に求めている「何か」を追いかけて生き急ぐしかなかったのでしょう。

原作に隠されたテーマ性を掘り起こした、傑作オマージュ

個人的に、本作は原作をリスペクトしつつも、まったくの別物という印象を受けます。

原作で物語られた恋愛要素の向こう側に隠れていた、貴樹のもうひとつの苦悩にスポットをあてることで、極めて今的なテーマの完全新作として生まれ変わっていると感じました。

 

本作で描かれる、恋愛要素を抑えた解釈で物語を捉えると、桜の樹の下で貴樹と明里が、奇跡の再会をする必要はなかったことに、改めて腹落ちします。

明里が「再会の約束を忘れていてほしい」と願ったのは、転校を繰り返していた当時の2人が、世界のどこにも居場所を持てずにいたからでしょう。

しかし大人になったいま、彼女はきっと、互いにそれぞれの居場所を見つけていることを願っている。

彼女のその願いは、本作のテーマそのものでもあるように感じました。

 

また、原作では描かれなかった、水野理紗(木竜麻生)との最後のやりとりを経ることで、物語全体の印象がよりポジティブな方向に整えられていたのも、絶妙な調整でした。

原作アニメの貴樹は受動的で、問題は時間が解決してくれる(想いが風化する)印象でしたが、本作では、貴樹自らが勇気を出して、変化の一歩を踏み出します。

 

ラストの踏切シーン、原作では電車が通り過ぎたあとに彼女の姿がないことに、貴樹は一瞬がっかりします。

しかし、本作の貴樹は(あぁそうか)という納得の表情。

 

自ら変わろうとした貴樹に合わせて、最後のシーンのちょっとした演技のニュアンスまで調整されていたのには感動しました。

原作を尊重しながらも、いまの時代に響く物語としてリブートさせた、まさに原作リスペクトの真髄を見せてくれた一本だったと思います。

 

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