『チルド』ネタバレ感想・考察。本作で描かれていたテーマは何か、深掘りしています。

かなりコンセプチュアルな映画だ。
現代を蝕む様々な病巣を、コンビニエンスストアとそこで働く人々に投影している。
社会派ドラマとホラーの狭間にあるような作品で、描かれるのは、極めて厭世的で歪んだ世界観だ。
それは、よく練られているとも思えるし、捉え方によっては荒唐無稽にも見える。
賛否両論は避けられない秀作だと思った。
あらすじ
東京の片隅にあるコンビニ、エニーマート倉冨町7丁目店の副店長・堺は、学生時代に働き始めて以来、気づけば20代のほとんどをこの店で過ごしてきた。レジ打ちに品出し、廃棄処理。そしてスマホゲームにマッチングアプリ。毎日はただ同じことを繰り返して過ぎていく。オーナーはコンビニというシステムの中でわずかな乱れも許さず店を支配しているが、そこへ新人アルバイトの小河が現れたことで、店の均衡は静かに崩れ始めていく。
映画.comより一部抜粋
命が日々、大量消費・廃棄される社会

コンビニに陳列されるサラダチキンの一つひとつは、鶏の命と同義である。
だが、その命の塊は賞味期限がすぎれば無慈悲に「廃棄」されていく。
堺がマッチングアプリで出会ったある女性は、猫の命を軽んじ、命を消費する思考の持ち主だった。その後に出会う看護師の女性は、働くうちに死に対する感覚が麻痺してきていることを告白する。
これは食品の廃棄に抵抗感を覚える小河と、「すぐ慣れる」と答えたパートのおばさんの会話とも呼応している。
物語は静かに日常を描きながら、手を変え品を変え、人間らしさを失い歪んだ社会システムの強固さとその危うさを伝えていく。
個人は、この社会システムに対抗できない

そんな非人間的なシステムへのカウンター的な存在として、新人アルバイトの小河(唐田えりか)の存在がある。
彼女は美容学校に通って、将来は自分の店を持つことを夢見る人物だ。
彼女の考え方は観客側に近いものだが、それは厳格なコンビニオーナーである堺の父親(西村まさ彦)の思想とは対立する思想でもある。
最後、主人公の堺は小河の影響を受けて自分らしい店づくりに目覚めるが、暴走したオーナーが小河を殺害してしまい、店は閉店。
堺は他の店に移籍し、もとの無感情な「いち店員」へと回帰する。
コンビニの向かいにあるキッシュ屋は、最初だけ行列するが、そのあと飽きられて潰れてしまう。個人店という人間らしさの塊のような存在が、コンビニというシステムに結局は屈してしまう姿が、堺の辿った末路とも重なって見える。
本作の結末は、スタッフの命をすり減らしながら淡々と営業するコンビニが、人(消費者)から選ばれ続けている皮肉と矛盾を現していた。
スタッフもコンビニも、世の中に代わりはいくらでもある。
すべてが代替可能な部品のように扱われるディストピアが、一貫して描かれていた。
オーナーは、抗っている人だったかもしれない

映画の結末として、オーナーは圧倒的な加害者として描かれている。
でも、彼がコンビニ経営を始めた理由は「そこにあったから」であり、この答えは、面接に来たバンドマンの男がコンビニの仕事を選んだ理由と同じなのだ。
オーナーは本部から派遣されたスタッフが進める施策に対して「それ、やらなくちゃいけませんか?」とそっけない態度だった。
彼はコンビニ本部が考えたシステムに忠実なようでいて、実はそうではないのである。
彼は、面接に来た男と同じく、ロックでパンクな人だった、かもしれない。
あくまでも、オーナーが目指していたのは「安定運営されるコンビニ」だ。
変化し続け、際限なく売上増を追求する、本部の思想には共感していなかった。
だからオーナーは、万引き犯をコスパを考えて野放しにする。
販促の面でも、揚げ物は熱心に売らないし、焼き鳥20%OFFも積極的に宣伝しようとはしない。
一時的な集客の波を起こすことに、否定的な人だったように思える。
彼は、一見するとシステムを象徴するような人物に見えながら、実は、システムに取り込まれまいと踏ん張っていた人なのかもしれない。
現代人が「生きながら、死んでいる」ことの証明

劇中、小河の死だけがことさらに残酷に描かれる(残酷に見える)のは、あれが本作で描かれる、唯一の「死」だからなのだろう。
本作に登場する人物のほとんどは、システムに絡めとられ「生きながら、死んでいる」人々ばかりだ。
だから、そんな彼らがビジュアル的にグロテスクな死を迎えたとしても、それは、「サラダチキンにナイフを入れた」くらいの意味しか持たない。
そんな中、小河だけは唯一「生きている人」だった。
だから、彼女の死だけは、とても生々しく痛々しいものとして映し出される。
堺が、他の場面で描かれる「死」には無関心だったのに、彼女の死にはショックを受けたのはそのためだろう。
小河の死とそれ以外の死の対比を描くことで、本作は、現代人が「生きながら、死んでいる」ことを証明しようとしている。
言い換えると、それは現代人がすでにゾンビ化していることの証明だったのかもしれない。
終盤のハチャメチャなスプラッター展開が、ホラーのお約束ではなく、テーマを描くための手段として使われていたのは見事だった。
また、本作が体験として面白いのは、描かれた最初の死(店長の首つり)を見た瞬間はドキッとさせられるのに、死が繰り返し描かれることで、だんだんと死に「慣れる」ことだ。
同僚(令和ロマン・くるま)の死にざまは、面白くすらあった。
そして、ファミレスで起こったあの出来事には、登場人物だけでなく観客までもが無関心になったのではないだろうか。
画面の奥で殺人が行われているのに、その手前で話す2人の会話に興味を惹かれていた自分の反応を思い出し、背筋が冷たくなった。