『Dear Stranger ディア・ストレンジャー』のネタバレ感想・考察。夫婦が乗る自動車が象徴するものや、夫婦のすれ違いなどについて語ります。

鑑賞前はあいまいに感じていた『Dear Stranger』というタイトル。
観終わった今、その言葉が胸に沁みるように響いています。
物語の中心にあるのは、アメリカで暮らす移民同士の夫婦。
日本人の夫・賢治と、台湾系アメリカ人の妻・ジェーン。
互いの背景も文化も違うふたりが、英語という「共通のはずの言語」を介しながら、それでもなお、分かり合えないもどかしさを抱えながら生きています
冒頭で賢治が語る「バベルの塔」のエピソードは、言語による人類の分断の象徴であり、彼らの関係を暗示するかのようでした。
以下では、賢治とジェーンそれぞれの視点から物語を振り返っていきたいと思います。
※ネタバレ感想になっていますのでご注意ください
- あらすじ
- 賢治は、寛容で強い父親になろうとしたがなれなかった
- 消せない自我と人形使いの苦悩
- 夫婦の問題を象徴する車
- 心の奥底にある、Strangerたちに対する「無意識の恐怖」を指摘された不快感が残る
あらすじ
ニューヨークの大学で廃墟の研究をしている日本人助教授の夫・賢治と、人形劇団のアートディレクターとして夢を追いながら、老いた父のかわりに地域密着型ストアを切り盛りしている台湾系アメリカ人の妻・ジェーン。仕事や育児、介護に追われ余裕のない日々を過ごしていたある日、幼い息子・カイが行方不明になってしまう。警察は誘拐事件とみて、夫婦それぞれから事情を聴取する。悲劇に翻弄されるなかで、ふたりがこれまで胸に秘めてきた本音や秘密が浮かび上がり、夫婦間の溝が深まっていく。
映画.comより一部抜粋
賢治は、寛容で強い父親になろうとしたがなれなかった

息子のカイは、ジェーンと前の彼氏との間にできた子どもらしいことが、物語の後半に判明します。
そこで、これまで腑に落ちなかった賢治の態度に合点がいきました。
ブランコを強く押しすぎてジェーンにたしなめられたり、妻の両親宅で、義理母がカイにアイスクリームなど甘いものを与えるのを止めなかったり。
子守をしないといけないのに、自分の仕事を優先し、カイから目を離してしまったり。
賢治なりに頑張ってはいるのですが、彼のカイに対する向き合いは、どうにもいま一歩足りない印象を受け続けていたことに対して、すべてが腑に落ちます。
ただ、本作が切ないのは、彼なりに一生懸命であることは真実なのだけど、本能的な部分で、自分の子ではないという意識が働いてしまっているように見えることです。

最後に、賢治はカイの身代わりとなって、殺人犯として逮捕されます。
それはジェーンから見ると独善的な行いなんだけど、彼にとっては父親であるための覚悟を見せるための決断。もっと言えば彼なりの意地の張り方だったのかも。
彼は寛容で強い夫でありたかったけど、描かれる日常のなかには、その理想に易々とは近づけない、彼の苦悩が滲みます。
賢治は、アイデンティティーを揺さぶられ続ける

彼は建築を専門とし、大学で廃墟の研究をしていますが、なかなか外部からの評価を得られません。
廃墟は、日本で大震災を経験し、家族を失った彼にとっては象徴的な存在。
その研究が認められないことが、彼のアイデンティティーを、長引く余震のように揺さぶり続けるのです。
賢治は、非力な男

本作において、賢治は徹底して非力な男として描かれています。
たとえば、車のトランクを閉める際に、彼だけが一発で閉め切れない。ジェーンや彼女の元カレは、一発でドンッと閉め切ります。
また、車から降りて家に入る時に、息子を抱えるのはジェーンで、彼は鍵開け係をしています。
これも一般的には、旦那さん側が子どもを背負う絵面になることが多いなかで、意図的にそう撮っているのだと思いました。
もう一つ、彼の乗る車が不調で、キュルキュルという異音がする件について。
修理屋では買い換えを勧められますが、義理の両親を気にして買い換えを渋ります。
おそらく、彼の車じゃないのでしょう。
そんなところから、男としての甲斐性のなさも露呈します。
消せない自我と人形使いの苦悩

ジェーンは、自分の母親から、子育てに専念して人形劇のアーティスト業は自粛するようたしなめられます。
でも、彼女のなかにある表現者としての情熱は燃え続けている。
自室で稽古する彼女には何かが乗り移ったかのように、鬼気迫るものがありました。
ただ、これこそが彼女の苦悩に他なりません。
彼女が探求するパペティア(人形使い)では、自分の存在を消すことが求められます。
これは、暗に自分を消して息子(カイ)のために生きよ、という母親のメッセージとも重なります。
ジェーンの、仕事も家庭も頑張りたいという価値観は、極めて現代的、未来的です。
一方、賢治には、表面上はジェントルにふるまいながらも、男性が大黒柱となって家族を支えるという、古びたマチズモ的な考えが見え隠れするのが対比的でした。
お互いを気遣いながらも、お互いを尊重しすぎるあまり共同体としては破綻していく2人の様子が、移民も含めたアメリカという国家の舵取りの難しさを伺わせます。
夫婦の問題を象徴する車

自家用車は、夫婦の間に横たわる問題の象徴のようにも描かれています。
車は夫婦関係のメタファーとなっていて、廃車寸前の車を賢治は直すことができず、最後には大破するという結末までが、美しく描かれています。
途中、スーパーの駐車場で車に、大きく「blank」とラクガキをされます。
ジェーンはラクガキを消しておいてと賢治に頼みますが、色々事情があって、最後まで消せずに終わります。
このblankは、夫婦の間にある微妙な距離感を示しています。
ジェーンは子どもを欲しがったけど、賢治はそれに答えなかった。
2人の間にある空白を解消できなかったのです。
もっと単純に、2人の間には「英語」がある、という意味もあるのでしょう。
その単語がblankであるのは、実にしゃれています。
また別の意味として、夫婦で1台の車を共有している(人生を共に歩んでいる)のに、賢治は2人にとって過去を象徴する場所(廃墟となった劇場)へ行き、ジェーンは次の人形劇の舞台の準備という未来を象徴する場所に向かうのも皮肉たっぷりです。
心の奥底にある、Strangerたちに対する「無意識の恐怖」を指摘された不快感が残る

子供の教育、親の介護、仕事と家庭、妻の元カレ問題…。
描かれるのは、カップルに起こりがちな問題ばかりだけど、お互いに移民という孤立しがちな背景が問題の解決を一層難しくします。
その上、お互いの意志疎通も第二言語によるもので、機微を伝えることに困難がある。
たまに、口論がヒートアップした時に、それぞれ日本語と中国語が飛び出すけど、そこはお互いに理解し合えない領域です。
映画タイトルの「Dear Stranger」とは、賢治にとってのジェーンであり、ジェーンにとっての賢治のことなのでしょう。
ドラマを客観的に観ている私たちには、2人はそこまで相性が悪いとは思えないけど、通じ合えないまま関係は終わってしまう。
なかなか後味の悪い作品でしんどさもあるのですが、日本に住んでいると意識することのない問題を垣間見れたのは収穫でした。
ただ、文学味のあるテーマのためエンタメ度は著しく低い映画です。
そこはご了承を、という感じ。
本作には、自身の心の奥底にある、外国人に対する「差別」とは別種の、「底知れなさを恐れる気持ち」を刺激される感覚がありました。
廃墟で発砲する賢治や自室で取り憑かれたように踊るジェーンの姿を、どこか怖いと感じたのは、彼や彼女の底の知れなさを、それぞれに突きつけられる象徴的な瞬間だったからなのかもしれません。