『か「」く「」し「」ご「」と「』ネタバレ感想です。本作における「かくしごと」とは何だったのか、隠された事実もふまえて物語について語ります。

住野よる先生の原作映画は大好きなので、期待して観に行きました。
「君の膵臓をたべたい」も、「青くて痛くて脆い」もトップクラスに好きな邦画です。今回も期待を裏切らない内容だったと思います。
この映画はネタバレしないで感想を書くのが無理そうなので、設定についてだけはネタバレ前提で書いています。本作は、あっと驚かせるような仕掛けを楽しむ映画ではないので、これを読んでも、映画の楽しみを本質的に損なうことはないと思います。
ただ、物語の核心に迫るネタバレについては、文章の最後のところで断りを入れた上で記載するようにしています。その手前までは読んでいただいても全然問題ありません。
- あらすじ
- 思春期特有の鋭敏な感覚を「見える化」している
- すべての人が、思春期だったあの頃に引き戻される
- 自分の気持ちだけは、能力で視られない、という設定が切ない
- <ここからネタバレです!!>
- 本当の主役は、パラであって京君ではない
あらすじ
引っ込み思案で自分に自信が持てない高校生・大塚京は、ヒロインではなくヒーローになりたいというクラスの人気者・ミッキーこと三木直子が気になって仕方ないが、マイペースなパラこと黒田文と一緒に楽しそうにしている彼女のことを遠くから見つめるだけの日々を送っていた。京の親友で三木の幼なじみでもあるヅカこと高崎博文の存在を通して、卒業まで“友だちの友だち”として過ごすはずだった。そんなある日、内気なエルこと宮里望愛が学校に来なくなったことをきっかけに、5人の思いが動きだす。
映画.comより一部抜粋
思春期特有の鋭敏な感覚を「見える化」している
この映画の登場人物たちは、“人の気持ちが見える”という能力を持っています。で、観客にもそのチカラを、CG演出として「見える化」しています。
たとえば、主人公と話している相手の頭の上に「?」や「!」が出たり、胸元にシーソーのような板が視えて、その人の気持ちがプラスに傾いたかマイナスに傾いたかを知覚できるといった具合です。
人の気持ちを“見える”と思い込んでしまう、思春期特有のナイーブな反応。
「いま、あの子に嫌われたかもしれない」とか、「あの子は誰々さんのことが好きに違いない」とか。
本当は分かってないのに分かった気になってしまう。そして、分かった気になったことで傷ついたり、不安になったりする。
思春期特有の繊細な感覚を「見える化」する設定が、“あの頃、こう感じていたかもしれない”という、私たちの淡くて曖昧な記憶を呼び起こす舞台装置として機能しています。
すべての人が、思春期だったあの頃に引き戻される
この映画は、「心が視える」という設定を通して、思春期の誤解や不安、コミュニケーションの不器用さを、リアリティを残しながらもより色濃く表現することに成功しています。
体験として面白かったのは、このCGによる「視える演出」にどんどん感化されてしまって、途中からは、演出として視えていないときも、いまマイナスに傾いたな、などと無意識に考えながら見てしまっていたことです。
まさに、あの頃に逆戻りした気分で主人公たちと一緒になって、いま相手が何を思っているかを考えて、心が動く瞬間にドキドキさせられながら物語を追いかけていたのです。
自分の気持ちだけは、能力で視られない、という設定が切ない
相手の気持ちは視えても、自分の本当の気持ちは視えない。これはまさに、自己認知がまだ育っていない思春期ならではの感覚だと思います。
わかっていないのに、わかった気になる。他人の心を気にしてばかりで、自分の心が置き去りになってしまう。
設定そのものは突飛。普通に考えたらリアリティなんてあるはずないのに、なぜか他の青春映画がかすむくらいに、超王道の青春ムービーだと感じられる不思議な傑作です。
原作の住野先生が、物語は変えたとしてもキャラクターは変えないで、と要望したというのが分かる気がします。
設定はファンタジーでも、そこに描かれる感情はまぎれもないリアル。
生身の17歳がそこに生きている映画でした。
<ここからネタバレです!!>
本当の主役は、パラであって京君ではない
パラは実はミッキーのことが好き。同性愛という設定です。
サイトのあらすじにも「言えない、この想いだけは。君の秘密を知ったとき、純度100%の涙が溢れ出す。」というフレーズが書かれていて、これはパラとミッキー(あるいは観客)のことを示しているとも解釈できます。
ミッキーがパラに鈴(この映画においては告白の意味を持つことがある)を渡すシーンが象徴的でした。ここでは、お互いの心情がどうなっているのか、観客には意図的に「視せない」演出となっています。
パラの「本当の私の気持ちを知りたいと思う?(うろ覚え)」というセリフに対して、ミッキーは、パラの心の動きを視たうえで言葉を返しているはずなんです。
その返答が、表向きはそうとは見えないけれど、言い回しを変えた告白に対するお断りの返事になっていて、観る人の胸を締めつける演出となっていました。
(余談ですが、「君の膵臓を食べたい」では、告白の言葉が別の言葉に置き換えられて表現されていましたね)
この場面が告白シーンとしては、唯一、たっぷり時間を使ってセリフを交換し合った展開となっていました。
一方、本来であれば一番の見せ場となるはずの、京君とミッキーが結ばれる告白シーンは、二人がどんな言葉を交わしたのかは直接的に描かれず淡い演出で処理されていました。
この扱いの差をとっても、本作が一番描きたかった瞬間がどこにあるかは明らかだと思います。
さらにダメ押しのように、タイトルが『か「」く「」し「」ご「」と「』となっています。
文字の間の「」が隠し事を示していて、登場人物が5人だからそれが5つあるという演出なのでしょう。
そして、最後のかっこだけが『「』となっています。片方しかありません。
一人だけ隠し事のカタチが違います。あるいは、一人だけかくしごとが、ある人に見破られてしまうことを示唆しているのか。
上映後にタイトルの文字を見て、最後の『「』は、きっとパラのかくしごとを示しているのだと思いました。
あと最後にもうひとつだけ。
原作にはない映画オリジナルのセリフだとパンフレットに書かれていましたが、ヅカ君がパラに伝えた言葉がありました。
「頭の中でどんなに悪いことを考えていても、それがその人の本性だとは思わない。結局大事なのって何をしたかでしょう?」
この言葉は、自分の感情を押し殺して周囲と接しているパラにとっては、救いでもあり受け入れるしかない覚悟のようにも思える一言だったのではないかと思います。
この一言があったから、カミングアウトぎりぎりのやりとりの中で、パラはミッキーと友達でい続ける選択ができたのかもしれません。