映画『国宝』の感想・考察です。あらすじから結末まで解説しつつ、喜久雄の求めた“景色”についてや、春江が俊介を選ぶ理由についても記載しています。

映画『国宝』観てきました。
もう予告編の時点で、アカデミー賞が決まったかのような貫禄を醸し出していた本作。
最高の期待値で鑑賞しました。
…にもかかわらず、想像よりも遥か上を越えてくる作品でした。
予告編から想像していたような単なる芸の継承の話ではないし、血筋と才能の対比にもとどまりません。
芸に生きる人たちの「生きざま」や「散り際」までも描ききった、邦画史にのこる傑作だと思いました。
※内容的に、一応ネタバレではあるのですが、この映画はストーリーが分かっても面白さに変わりない気がしています。
- CMでお馴染みのあのセリフは、意外と早く登場する
- 芸以外のあらゆるものを失い続ける喜久雄
- 拍手と雨音のコントラスト
- 命を賭して、曽根崎心中を完成させる
- 血筋とは、加護であり呪いでもある
- 喜久雄が求めた「景色」とは?
- 春江が俊介を選ぶ理由
CMでお馴染みのあのセリフは、意外と早く登場する

あるとき、渡辺謙が演じる二代目花井半二郎が、病気で舞台に立てなくなります。
代役に誰を立てるかという話になって、普通だったら、自分の息子を選ぶじゃないですか。
でも彼は実子の俊介じゃなくて、芸だけでのし上がってきた血縁のない喜久雄を選ぶんですよ。
現実にはちょっと考えられないような展開ではありますが、歌舞伎役者としての矜持を感じる力強いシーンです。
父から選ばれなかった俊介は、葛藤がありながらも、喜久雄を応援することを選びます。

出番を前に震えが止まらない喜久雄に対して、「(血筋はなくとも)芸があるやないか」と声をかけます。
ここが何度もテレビCMで流れていたシーンです。
てっきりこれがクライマックスだと思っていたら、まだまだ全体の3分の1くらいなんです。
芸以外のあらゆるものを失い続ける喜久雄
その後の喜久雄は、芸があるというより『芸』しか手に入れられない男として描かれていきます。

社でお願いする場面で、「歌舞伎をもっと上手うならしてください。その代わり、他のもんは何もいりませんから」と話す喜久雄は、異様な雰囲気を纏っていました。
本来は神様に祈るところで、あえて「悪魔にお願いする」という表現をする喜久雄の中には、このとき既に、人の道を捨てて芸と心中する予感があったのかもしれません。
映画全体のなかでも、このシーンだけが浮いてみえるほどに異質な場面です。
喜久雄には血筋もなければ、心許せる家族もない。
唯一、心を寄せた幼なじみの春江も、最終的には俊介のもとへ行ってしまいます。喜久雄は、芸の才能には恵まれましたが、人生では負け続けます。
拍手と雨音のコントラスト
あまりの迫力に思わずため息が漏れたのは、喜久雄が半二郎の代役を務めた、曽根崎心中での“拍手と雨音”の演出です。
舞台で喜久雄が拍手を浴びていると、その音が場面転換した劇場の外にいる春江と俊介の姿にオーバーラップします。劇場の前を、傘をもつ人が行き交う描写と相まって、拍手の音が雨音となって二人に降り注ぎます。

そして、ハッと気づかされます。
舞台の外の世界では、喝采の拍手が“ただの雨音”に過ぎないことを。
つまり、舞台の上で浴びる賞賛は、雨と同じで一時的なものであることを拍手と雨音を重ねることで訴えかけているのです。
雨音のなかで結ばれた春江と俊介は結婚して子をなします。
対して、喜久雄は舞台上で「芸」と結ばれます。この両者の対比があまりに見事でした。
クライマックスのような盛り上りを見せますが、ここまででまだ全体進行の半分くらいなんです。とんでもない映画です。
命を賭して、曽根崎心中を完成させる
終盤、紆余曲折を経て、俊介と喜久雄はまた同じ舞台に立つようになりますが、俊介は糖尿病により片足を失います。
そんな中で俊介は、まだ片方の足が残っている間に、父の十八番だった「曽根崎心中をやりたい」と言います。この因縁めいた展開には心が熱くなります。

そしてこれは、俊介が当時、父の代役を務められなかったことの、単なるリベンジマッチではないんです。
俊介が命をかけて演じることで「喜びと哀しみが同時に存在する様を表現せよ」という、生前の半二郎の教えを完全体現することに意義があります。
ボロボロになりながらも舞台をやりおえた俊介は、舞台の幕が下りた直後に息を引き取ります。
ここでの主演二人の鬼気迫る怪演には、呼吸を忘れるほどでした。
血筋とは、加護であり呪いでもある

物語を通じ、テーマとして浮かび上がるのが「血筋」と「芸」の二重構造です。
俊介には血筋があったけれど、喜久雄との後継者争いに負けて芸からは一時離れていました。でも8年のブランクを経て歌舞伎の世界に戻ってくる。戻れたのはまぎれもなく彼の血筋の力です。
でもその血が、(遺伝的な理由で)彼の命も奪う。糖尿病という形で。
直接的には描かれていませんが、父の半二郎も、晩年は視力を失っていたことから糖尿病だったと推測されます。
一方の喜久雄は、血筋の代わりに芸だけあった。芸しかなかった。だから生き延びるけど、孤独なんです。
面白いのは、血筋は機会を与えるけど、命も奪うという皮肉。血筋は加護でもあり呪いでもあるんです。
喜久雄が求めた「景色」とは?

あとで思い出してゾクッとしたのは、映画冒頭の、喜久雄の“実の父親”が殺されるシーン。
実の父親は極道で、喜久雄の目の前で壮絶な死に姿を見せます。これが、喜久雄の中に「生きざま」「散り際」に対する美学のようなものを植え付けたように感じました。
劇中では、幾人かの死に際が描かれます。
最初は喜久雄の実の父。次は喜久雄にとって育ての父親の半二郎。そして俊介。最後に、人間国宝の万菊。
彼らの散り際は、一つの例外を除いて、潔く美しく尊く描かれます。共通するのは、最期の瞬間まで自らの道に殉じていたこと。プロフェッショナルとしての矜持を抱いて逝ったこと。
ただ唯一、半二郎だけは最期の最期で「しゅん坊……、しゅん坊……」と、その場にいない不出来な息子の名前をみっともなく口にしてしまう。
舞台の上にいるにも関わらず、歌舞伎役者としてではなく、一人の人間として俗にまみれて死んでいくんです。

意図的かはわかりませんが、半次郎の死に際だけはやたらと苦しげに、惨めに描かれていたのが心に残りました。
喜久雄は、半二郎のような死に際を善しとしなかったのでしょう。
だからこそ、喜久雄は人間国宝に至ることができた。
喜久雄の探し求めた景色は、人としての生を捨て、芸を極めた果てに至る、一瞬の凪のような時間のなかにだけ存在するのかもしれません。
170分の長い映画ですが、体感的には120分くらいに思えました。
そのくらい良い緊張感がずっと続きます。すごい映画でした。

春江が俊介を選ぶ理由
他の方の感想のなかで、春江が俊介を選ぶ理由がわからない。描写が足りないと書かれていたので、その件について追記します。
結論、二人が結ばれる展開に違和感はなかったと考えています。
その理由は、大きく3つあります
理由①演出的な説明がされていたから
1つは「拍手と雨音のコントラスト」の項目で書いた通り、物語の演出上、ここで喜久雄と俊介の運命がわかたれていくのが示唆されていることです。
理由②春江の人物描写からの想像
2つ目が、春江という人の嗜好として、自分が男を支えるということ(自分の介在価値が実感できること)に価値を感じている人だからだと考えます。
喜久雄がまだスポットライトを浴びる前の状況のときに、「私が働いて支えるから」といった言葉を喜久雄に対して言っていた場面もあったと思います。
また、キャバクラで喜久雄と俊介が飲んでいたときに(このときはまだ俊介のほうが立場が上だった)、調子に乗りぎみだった俊介よりも、控えめで朴訥に芸と向き合っているように見える喜久雄に優しげな眼差しを向けていた場面もありました。
少し生々しい話になりますが、春江の男性の好みとして、ちょっと可哀想に見える優男を、放っておけない性分があるのだと思います。
理由③春江と俊介の共通点:喜久雄の隣にいたかったけど、いられないと悟ってしまった二人
曽根崎心中を堂々と演じる喜久雄を観たときに、俊介はショックを受けます。横並びで稽古して、並んで舞台に上がっていたはずの喜久雄が、遠くに行ってしまったような感覚にとらわれたのです。
だから俊介は、喜久雄の姿を観ていられずに、思わず席を立って劇場の外に出ていきました。
そのとき、実は春江も、俊介とは別の意味でショックを受けていたのだと思います。舞台にいるのは、もはや自分の知っている幼馴染の喜久雄じゃなかったんですよ。
俊介と春江で、それぞれ理由は異なりますが、「喜久雄が自分から離れて(巣立って)遠くに行ってしまった」と感じている点が、二人の心情として共通項になっています。
そして、喜久雄の隣にいたかったけど、いられないと悟ってしまった二人は惹かれ合ってしまう。
「逃げるんやない」という俊介の言葉は、まさに、俺が逃げたんじゃなくてアイツが離れていっただけなんや。
という、やりきれない状況を圧縮した一言だったのかもしれません。
上記の3つの理由から、二人が結ばれた理由としては劇中でも十分に説明はついているんじゃないかな、と思っています。
ただ、原作を読んでいないので、本当は全然違う理由だったりしたらごめんなさい。映画だけ観た自分には、そんなふうに解釈できました。