『見はらし世代』ネタバレ感想・考察です。見はらし世代とは何なのか、ラストのLUUPの意味など解説しています。

映画を観たきっかけは「見はらし世代」というタイトルに惹かれたからです。
ただ、観ている途中には「これが見はらし世代のことだ」と断言できるような瞬間はなく、タイトルの意味はずっと掴みきれませんでした。
ようやくその意味が少しだけ見えた気がしたのは、最後まで観終わってからでした。
ということで、最終的な「見はらし世代とは何か」ということと、そこに関連するラストシーンの解釈に向けて、自分なりに受け取ったものを整理しながら書いていこうと思います。
- あらすじ
- 居場所からの「排除」が描かれる
- 切り落とされた胡蝶蘭に、誰も気づかない
- 切り落とした本人だけが知っている
- 死んだはずの母親が現れる、異常事態
- 母の立場を「置き換え」ることの加害性に気づいたマキ
- 現れた由美子に、子どもたちが見えなかった理由
- バイクは2人乗り
- ラストショットのLUUPが暗示するもの
- 見はらし世代って、結局、何だったのだろう
あらすじ
渋谷で胡蝶蘭の配送運転手として働く青年・蓮は、幼い頃に母・由美子を亡くしたことをきっかけに、ランドスケープデザイナーである父・初と疎遠になっていた。ある日、配達中に偶然父と再会した蓮は、そのことを姉・恵美に話すが、恵美は我関せずといった様子で黙々と自らの結婚準備を進めている。そんな状況の中、蓮は改めて家族との距離を測り直そうとするが……。
映画.comより一部抜粋
居場所からの「排除」が描かれる

本作では、あらゆる場面で「居場所からの排除」が象徴的に扱われます。
劇中では、渋谷の宮下公園が再開発されてMIYASHITAパークへ変貌する様が描かれます。
その過程では、もともと公園で生活していたホームレスたちを排除する姿も映し出されます。
同じように、仕事先の花屋をクビになる主人公や、父親によって家族という共同体から排除されてしまった(自死してしまった)母親の姿がそこに重ねられていきます。
切り落とされた胡蝶蘭に、誰も気づかない

変化と排除を描く中で、排除の主体になる者についても言及されます。
たとえば、主人公の蓮は、配達前の胡蝶蘭から一輪の花を切り落とします。
しかし、配達先の人たちは、その胡蝶蘭から花が一輪失われていることに気づきません。
蓮が鉢植えを落としたり、放り投げたりしたときには、誰もがその変化に気づくのですが、人知れず切られた花には誰も関心を払わないことが鋭く描かれており、なかなか恐ろしい。
ここでの一連の彼の態度は、かなり感情を抑えた演技で描かれており、否が応でも、感情ではなく起きた現象に着目させられてしまうのは、語りの上手さなのではないかと思いました。
切り落とした本人だけが知っている

先の胡蝶蘭の件は、花が失われたことに気づくのは切り落とした本人とそれを見ていた者だけという構図になっています。
10年前の夏の日、父親の初は、妻の由美子の願いを振り切って、バカンスを切り上げ仕事に戻りました。由美子が自殺したことは、その原因を作った初と子どもたち(蓮と恵美)だけが知っています。
劇中では、幼い頃の自分の一言が母を傷つけ、自殺に向かわせたのではないかと、蓮が思い悩む場面も描かれていました。
終盤、パーキングエリアに、由美子を除いた一家が再集合するシーンでは、周囲の誰もそこに一人欠けているとは気づきません。
テーブルの側の電球が落ちる演出があるのですが、あれも、天井にたくさんある電球を誰も気にもとめてなくて、でも、落ちる瞬間を見せることで、そこから一つ光が失われたことに気付けると示しているような気がしました。
死んだはずの母親が現れる、異常事態

これは、本作においてかなりの異常事態です。
なぜなら、切り落とした胡蝶蘭は再生しないし、落下した電球が元に戻ったりもしないからです。
元に戻すには、「新しいものと入れ替える」しかない。
劇中にはこれを、初が再婚を考える相手(佐倉マキ)の形で描いています。
当初、初は10年ぶりに家族が再会する場に、マキを連れていき紹介しようと考えていました。
ただ、直前にマキはテーブルに知り合いの恵美が座っていることに気づき、自分の付き合っている男性(初)は、友人の恵美の父だったことを悟ります。
そして、マキは静かにその場を離れます。
代替の母となるマキが去ることと、死んだはずの由美子が現れることが呼応しており、シナリオ的にはかなりファンタジーな展開ながら、ここで再登場する井川遥さんの演技には、この状況を受け入れざるを得ない自然さと迫力がありました。
母の立場を「置き換え」ることの加害性に気づいたマキ

マキがその場を去ったのは、自分の登場が恵美を傷つけると想像したからでしょう。
後に、恵美とマキは、かつて夏に訪れたペンションに侵入し、そこで母でもない友達でもない、新しい家族としての関係を築いたように見えます。
つまり、何かが失われたときに、その穴を埋めるものが現れたとしても、それは過去あったものの代替にはならない、ということなのだと感じました。
家族と会う予定の前日に、マキも初にこう言っています。
「私は奥さんの代わりではなくて、ただ私でしかないから」と。
この感覚は、宮下公園からMIYASHITAパークに置き換わったときに、新しい施設が、完全には過去の宮下公園を代替できないこととも通じ合っている概念だと思います。
現れた由美子に、子どもたちが見えなかった理由

パーキングエリアに現れた由美子は、かつてとは別人のように、朗らかに初の仕事ぶりや頑張りを肯定してくれます。
そして、由美子の目には初しか見えていません。
蓮と恵美は見えていないのです。
これは、現れた由美子が、「彼女自身が、本当はこうありたかった姿」だからなのかもしれません。
ただ同時に、由美子が初に寄り添って、彼の仕事を応援できる世界線には、蓮も恵美もいなかったのかもしれないと、そんなことも考えてしまいました。
あるいは、現れた由美子は、2人がまだ仲が良かった頃の、初の記憶の中にある彼女の姿とも考えられます。
ただ、これも結局、まだ2人だった頃の彼女の姿を思い描くものであり、彼女の目には子どもたちが映らない点では共通しています。
バイクは2人乗り

初がパーキングエリアに乗っていくのって、バイクじゃないですか。
あれって2人乗りまでなんですよね。
対して、蓮が乗っていた自動車は、家族4人を乗せることができるものです。
これは、初という男の身勝手さを象徴しているようにも思えました。
パーキングエリアでマキを紹介するけど、彼には、家族としてリスタートする気はさらさらないのです。
あくまでも、彼の人生の定員は自分+1人までなんですよ。
それは今も、10年前のあのときも。
彼が描く理想の家族像は、子どもがいない夫婦2人のものなんです。
ラストショットのLUUPが暗示するもの
そして、そんなことを考えていると、ラストショットにLUUPが出てきました。
若者4人がそれぞれLUUPに乗って、目的地に向かっています。
でも、途中で会話される食事の好みは、それぞれ違っている。
同じ方向に向かっていても、それぞれは独立した存在として描かれます。
LUUPの存在は、それぞれが共通のビジョンをもっているから、同じ目的地にたどり着けることを示してくれます。1人ひとりがハンドルを握っているわけです。
車もバイクも、行きたいところに行けるのはハンドルを握っている1人だけで、同乗者は究極的には、運転者に行き先を委ねるしかないのです。
見はらし世代って、結局、何だったのだろう

劇中でとくに言及されないので答えは分からないのですが、個人的には、「自分で自分の人生の舵取りをしている人たち(主に若い世代)」なのかなと思いました。
花屋さんで、蓮がクビになった直後に、私も辞めますと言って出ていく女の子がいましたけど、実はあの子が、最後のLUUPの4人組の1人なんですよね。
彼女のように、細かい服装の色使いまで個性を否定されるような職場からは飛び出して、自分の意思で進む方向を「見晴らせる」人たちこそが、この映画で描かれた「見はらし世代」なのだと感じました。
そんなふうに考えると、初とか由美子の世代はLUUPがなかったわけで、それは個を大切にする生き方が、まだ存在しなかった世代だとも言えるような気がします。
このLUUPに乗った若者が走るラストを見せられたときに、これまでの展開が一気に腑に落ち、これは凄い映画を観てしまったのではないかと思いました。
団塚唯我監督は、本作が初めての長編映画だとのことですが、早くも次回作が楽しみになりました。