『寝ても覚めても』ネタバレ感想・考察。タイトルの“寝ても覚めても”の真意や賛否がわかれる終盤の展開についてなど解説します。

2018年の映画ですが、文芸評論家の蓮實重彦氏の「ショットとは何か」という本を読んでいて、この方の批評は全体的に辛口なのですが、『寝ても覚めても』は“みごとな作品”と書かれていたので、興味を持ちました。
『寝ても覚めても』は、主演の唐田えりかと東出昌大が不倫していたことでも話題になった映画で、「あぁこの作品か!」と思いつつ観てみたところ…
いや、これはちょっと……驚くほど良かった。
思っていた以上に。
この作品、唐田えりかの映画初主演ということらしい。マジですか…
同じく映画初主演の浜辺美波の『君の膵臓をたべたい』を観たときと同じくらいの衝撃を受けたので、そのあたりを書いてみようと思います。
唐田えりかの関西弁、実は上手い
この映画、全般的に関西弁なんですよ。
レビューなど見ると、唐田えりかの関西弁が変とか、演技がどうのと書かれていたりします。
ただ、個人的には上手く見えちゃったんですよね(いちおう関西人です!)
「〜だと思う」「私はそう思った」のようなセリフを、唐田えりかが独特の関西イントネーションで話します。
確かに、みんなが想像する関西人っぽい人格(※語弊はあるが、声がデカくて気が強い)の人が使う関西弁と比べたら、たしかに全然違うんですよ。
みんながイメージする関西弁としては、共演している伊藤沙莉の話し方のほうが、それっぽく見えるのでしょうね。
でも、子どものときに話していた女の子たちは、本作の唐田えりかのような話し方をする子がけっこういた記憶があります。
幼いというか、甘えた感じというか。
ちょっと子供っぽくて、おとなしい子の関西弁って実はこんな感じなのです。
だから、唐田えりかのセリフが、とんでもなく自然な関西の女の子の言葉に思えて、びっくりしてしまいました(大人の女性っぽくないという意味なら、まぁそのとおり)
一般的な評価だと伊藤沙莉のような感じの関西弁が、関西弁の演技だと思われるでしょうが、いやいや、本作の唐田えりかの関西弁のほうが、実はリアリティありまっせ、と太鼓判を押したい。
ちなみに、よく関西人がその関西弁はネイティブじゃない、と言ってるアレ。
半分間違いだと思ってます。
東京の人だって、実際の人の話し方と映画に出てくる人の話し方って違うじゃないですか。芝居とリアルはちょっと違うのが普通です。それが自然か不自然か、の差はあれど。
関西弁も同じで、現地の人そのまんまのしゃべりをしたら、汚いだけでドラマにならないですよ(笑)
たとえばドヤ街を描くような世界観で、意図してそういう演出をするならいいですけど、本作は違いますしね。
ハマり役とはこういうことだ
この話をするにあたって、まずは冒頭に書いた、浜辺美波の『君の膵臓をたべたい』の話からします。
言わずと知れた名作ですが、膵臓の病気を患い余命が少ない女子高生を浜辺美波が演じています。
このときの浜辺美波のセリフ回しが、あえて言うなら、下手な標準語(こなれていない演技)ってことなのだと思います。
でも、これもすごく上手に見えてしまった。
浜辺美波演じる山内桜良の「君に〜〜〜〜させてあげます」といった、美少女ゲームのキャラみたいなしゃべりが、余命僅かの少女が懸命に生きている姿の表現として、本人のビジュアル含め、あまりにもしっくりきすぎていました。
可愛らしいけど、しっかり主張はしていて、でもお願いというトーンよりは強制力を持たせたくて、という彼女の余命が残り少ないというシチュエーションに、ハマりすぎた独特の口調が、唯一無二の個性に見えたのです。
本作の唐田えりか演じる泉谷朝子にも、同種の印象を持ちました。
性格が明るくなくて、自分の想いを言葉にするのが得意じゃない朝子が、意を決して自分の意見を主張するときに、関西弁が、心に秘めた意思の強さや芯の強さといったニュアンスを、絶妙に創り出してくれているように感じました。
この人、この役、この口調でなければ作れない、唯一無二のキャラクターがそこに立ち上がっているような感動を覚えました。
演出の巧さで、物語の質が引き上げられている
せっかくなので、映画の全体的な印象の話も少しだけ。
冒頭、朝子が訪れるアート個展の作者の名前が牛腸茂雄(実在の人で、映っていた作品も本物)となっていて、その後のシーンで仲間内でホルモン屋さんで飲んでいる場面につながったりするのはシャレが効いていて面白い。
本作の陰の主人公とも言うべき、鳥居麦が登場するときの不協和なBGMの演出も効いていました。
劇中で大きな地震が起こるのですが、抑制されながらも不安を煽る演出でした。停電がおきて真っ暗闇のなか、音と周囲の声だけで地震を表現します。それが実際の地震らしい臨場感を伝えてくれたし、その場のトーンにもあっていたように思います。
あと、最高だったのが、最後の方でおばちゃんが朝子に秘密の話を打ち明けるときに、干している洗濯物の陰に隠れながら話をするシーン。
このあと朝子がある決意をするためのきっかけとなる重要な場面ですが、あの仕草と演出でなければ伝わらないニュアンスがあり、自分とは信条の違うキャラクターに対しても共感させられてしまうのは、紛れもなく映像の力だと感じました。
このあとネタバレなので、まだ観てない方はぜひ観てみてください。
賛否がわかれる終盤の展開(ここはネタバレあり)
あと書くとしたら賛否が別れる、終盤の展開でしょうか。
リアリティがあるようでない、ないようである展開だと思います。
映画を通して描きたいのが、まさにここなのでしょうね。
寝ても覚めても、、、
理性で制御できない激しいものが胸の内に流れている、ということ。
ここまで丹念に積み重ねてきた丁寧な描写を経て、ここで一気に表現がジャンプします。
突如、理性では考えられない方向に、話が転がっていく。
でも、この自分では制御できない「衝動」こそが、この作品で表現したいものなのだと感じます。
朝子と亮平のやりとりにもそれは現れていて、
「亮平は優しい。でも、もう甘えない。」
「俺はきっと一生、おまえのこと信じへんで」
「うん、わかってる」
“きっと”って言った時点で、もう信じる気あるんですよ(笑)
理性では、「こんな女、絶対ない」と分かってるはずだけど、でも割り切れない。
人間ってこういうもんです。心の揺れが言葉に漏れ出している。さりげない演出です。
寝ても覚めても、鳥居麦に惹かれてしまった泉谷朝子と同様に、寝ても覚めても、泉谷朝子に惹かれてしまう丸子亮平がそこにいる。
ドラマ的な解釈としては、鳥居麦が一度いなくなって戻ってきたように、いなくなった朝子もまた亮平のところに戻ってきた、という構図です。
ふらっと出て行くけど、そのうちふらっと戻ってくるのは、まるで猫のよう。
亮平は、朝子が出ていった後にも、いっしょに飼っていた猫を捨てられずにいましたが、それは朝子を捨てられなかったということでもある。
猫に対する亮平の態度こそが、二人の恋愛における力関係の明確な答え、と言っても良いのではないでしょうか。
本作における三人の力関係は「鳥居麦 > 泉谷朝子 > 丸子亮平」となっているのです。
ここまでざっと語りましたが、結論は賛否で言うと、圧倒的に「賛」です。
終盤の展開は突飛に見えるのだけど、物語的な整合は十分にとれていると感じます。
最後の川の流れを眺めているときの二人の感想もよくて、
「汚い川や」
「でも、綺麗」
と、感想が真逆であるように、二人の思いは一致しない。
でも、それでも二人は離れられなくて、清濁併せ呑みながらも同じ方向に流れていく。
余韻があり、味わい深い幕引きです。
映画のために書き下ろされたエンディング曲「River」の歌詞も映画を象徴していて、終幕にふさわしい曲。
ふたりの愛は
流れる川のようです
とぎれることないけど
つかめない
こういう曲が流れると劇場に来て良かったと思えますよね。
(今回は配信で観たけど…)
良き映画でした。
