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『ワン・バトル・アフター・アナザー』感想:息もつかせぬ逃走劇の奥に、P.T.A的テーマが滲む

『ワン・バトル・アフター・アナザー』ネタバレ感想・考察です。本作で語られる家族や移民などのテーマについて、物語の展開と重ねながら解説しています。

ワン・バトル・アフター・アナザー

ポール・トーマス・アンダーソン監督が、一貫して描き続けている「家族」をテーマとしながら、人種や移民、国境問題など、アメリカ的な課題も散りばめられた、ノンストップのアクション劇。

という全部盛りどころか、器から溢れ出しそうなボリューム感の作品だけど、162分の超大作となったことが功を奏して、要素が収まるべきところに収まった、奇跡のバランスを保つエンタメ作品に仕上がっていました。

 

作家性とエンタメ性が調和した、理想的な大作映画だと思います。

ただ、宣伝など含めて典型的なアメリカ映画っぽく見えるため、日本ではあまり人気が出なさそうでもったいない感じもしました。

 

あらすじ

かつては世を騒がせた革命家だったが、いまは平凡で冴えない日々を過ごすボブ。そんな彼の大切なひとり娘ウィラが、とある理由から命を狙われることとなってしまう。娘を守るため、次から次へと現れる刺客たちとの戦いに身を投じるボブだが、無慈悲な軍人のロックジョーが異常な執着心でウィラを狙い、父娘を追い詰めていく。

映画.comより一部抜粋

逃走劇のフリをした闘争劇

革命家としての過去が、皮肉にも娘のウィラを危険に巻き込む原因になってしまう。

追手から逃げるときも、娘を追いかけるときも、ボブの眉間には深いシワが刻まれますが、それは外部の敵というより、過去の自分に追い詰められているかのようです。

ポスターにある「逃走劇のフリをした闘争劇」という言葉は、まさにこの映画を言い表していました。

 

革命家の母親の血を色濃く受け継ぐウィラの才気と、ボブのダメさ加減の対比もコミカルです。

この構図は、アメリカの現状に対して親世代が積み残した問題を、子ども世代が力強く牽引していくことを示唆するようでもありました。

「説明ゼロでもわかりやすい」映画的語りのうまさ

この映画、怒涛の展開で話が進んでいくわりに、いま何が起こっているのか不思議と見失いません。
ストーリーテリングが巧みなのです。

 

直接的な説明が省かれている箇所も多いけど、俳優の演技やシチェーションの描き方が秀逸で、登場する人物に対して「この人はこういう人なんだ」と、感覚的に理解させる演出に長けています。

ベニチオ・デル・トロの演じる“センセイ”なんかまさにそうで、普段は空手の師範なのだけど、ボブの逃走を手助けするときの動きは、バリバリ現役の革命家。

隠れ家の「庶民に擬態している」感じの雰囲気も、迷路のような屋内を長回しで練り歩くことで、リアルに映ります。

ロックジョーが参加しようとするクリスマスの冒険者(白人至上主義グループ)も、B級っぽい雰囲気ながら、妙なリアリティを感じさせるものでした。

カッコ悪いけど、目が離せない。ディカプリオ演じる主人公

本作の見どころは、なんといってもディカプリオ演じるボブが、終始どんくさくて情けないところでしょう。

追手に対して自力で逃走しきれず、センセイに何度も助けてもらいます。

逃走中も体力がなくてヘロヘロになり、建物から建物まで飛び移るのに失敗して、敵に捕縛されたりもする(笑)

 

その後、娘を保護してくれているかつての仲間の組織に連絡をするのですが、薬と酒でボロボロのボブは、組織の暗号(合言葉)を思い出すことができず、肝心の娘の居場所を聞き出すことすらできません。

最後のカーチェイスシーンでも、ボブは先行するウィラやその追手にまったく追いつくことができず、彼が娘に追いついたときには、すでにウィラは追手を撃退済みという体たらく。

センセイからゴツいライフル銃を貸してもらっていたのに、それも活かし切ることができません。

自由とは、恐れないこと。ボブが恐れたものは何か?

センセイは、ボブに「自由とは、恐れないこと」と言います。

(このセリフは、もともと歌手のニーナ・シモンの言葉らしいです)

 

かつて、ボブは自由でした。

でも、娘ができたことで、恐れを知ってしまった。

ボブの逃走劇は、とても臆病なものとして描かれます。

 

走行中の車から飛び降りて逃げるときも踏ん切りが着かず、センセイに押し出されてようやく道に転げ落ちるような有り様。

娘を失う恐れだけでなく、自分が死ぬことで、娘から母親だけでなく父親までも奪ってしまうことが、彼にとっては無意識化の恐怖になっていたのではないかと思います。

 

そして、そんなボブの、ウィラの背中を追いかける逃走劇は、かつて妻のペルフィディアの背中を追って革命に身を投じたときと、はからずも同じ構図になっているのが感慨深い。

暗号がなくても信頼し合えるのが家族

終始ダサいボブですが、ウィラに追いついてからのやりとりは、とても父親らしく格好良い。

追手を撃ち殺したが、恐怖と安堵で気が動転するウィラは、父であるボブに対して、大声で暗号を投げかけます。

目の前に現れた男が味方かどうかを、確認しようとしているのです。

 

それに対してボブは「わかるだろ、暗号はもういい」と応えて、娘を抱きしめます。

前半で散々ネタとしていじっていた「暗号」を活かして、家族の結束の強さを鮮やかに提示してみせるのは実に粋でした。

移民は、アメリカのファミリーになれるか?

この映画には革命家たちや白人至上主義の結社、軍隊など、様々な「共同体」が登場し、それらの組織は、思想や利害でつながりながらも脆い関係として描かれます。

そのカウンターとして、本作ではもっとも強固で信頼できる共同体としての「家族」が描かれています。

しかもそれは、必ずしも血縁ではないことが示される。

 

終盤、ウィラは、ペルフィディアとロックジョーの間に生まれた子どもであると明かされます。

つまり、ウィラとペルフィディアの母娘関係にとって、ボブの存在は血縁的には部外者です。

しかし物語の最後に、ウィラは遺伝的な父親のロックジョーではなく、育ての親であるボブと家族であり続ける未来を選びました。

血縁ではない関係を選択したのです。

 

あくまで私の解釈ですが、ここには、アメリカという国家にとっては、移民も家族になれるはずだという想い(というよりも願い)が込められているように感じたのでした。

余談:ハリウッドスター渾身のコント劇が笑える

センセイの隠れ家に入ったあとに、ディカプリオが充電したいのに、センセイになかなか充電させてもらえないシーンがあって、息のあったコントのようで最高でした。

センセイとボブのやりとりがトルコアイスのあれのようで、何回コンセントを抜き差しさせるのよ、と(笑)

 

暗号でもたつくシーンも笑えたけど、個人的に一番可笑しかったのは充電シーンです。

この場面では、充電=逃走劇の小休止でもあって、休めそうで休めないボブの姿が哀愁たっぷりでした。

基本はシリアスな逃走劇ながら、要所に散りばめられたふっと笑わせるようなユーモアが、エンタメの良いスパイスになっていました。