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『急に具合が悪くなる』感想:がん患者と対峙する「心理的な困難さ」を追体験させる名作

『急に具合が悪くなる』ネタバレ考察。原作の宮野さんと磯野さんによる往復書簡(書籍)も踏まえた上で、作品の構造や特性について、感想を交えて解説しています。

『急に具合が悪くなる』感想

『急に具合が悪くなる』は、同名の書籍を原作として作られた。

原作は、哲学者の宮野真生子と人類学者の磯野真穂の往復書簡を収録したシンプルな構成だが、それを濱口監督が、自身の感じている社会課題も盛り込んで大胆に脚色している。

 

内容的には、同監督の長編映画『ドライブマイカー』よりも受け取りやすい印象を受けた。

セリフまわしやショットが洗練されており、なにげない会話の応酬が続いても、観る者を退屈させない完成度に唸らされる。

 

一方で、本作について、自分は不思議な感想を抱いている。

それは、がん患者と対峙する「心理的な困難さ」を追体験させる作品だということだ。

物語は観客に、末期がん患者である真理に同情することをゆるさない。

安易な感情移入がゆるされず、繰り広げられる事象に対して、「私個人」は、どういう態度でいるべきなのかを問われ続けるような、受け止めるのに精神力を要する作品であった。

あらすじ

パリ郊外の介護施設「自由の庭」で施設長を務めるマリー=ルー・フォンテーヌは、入居者を人間らしくケアすることを理想としながらも、人手不足やスタッフの無理解に悩まされていた。そんな中、日本人の舞台演出家・森崎真理と出会ったマリー=ルーは、がん闘病中の彼女が描く演劇に勇気をもらう。同じ名前の響きを持つ偶然に導かれて交流を始める真理とマリー=ルーだったが、あるとき真理は急に具合が悪くなる。真理の病の進行とともに2人の関係は深まり、互いの魂を通わせ合うようになっていく。

映画.comより一部抜粋

『急に具合が悪くなる』で、繰り返し描かれるもの

本作では、自分と他者との間に引かれる境界線(社会的な分断やラベリングのようなもの)と、それを取り払う試みが、手を変え品を変え描かれる。

 

序盤に登場する劇中劇で、清宮吾朗(長塚京三)が演じた「バザーリア」は、精神病院を廃止し、精神障害を持つ人も、健常者とともに地域の中で暮らしていくことを目指した人物だ。

舞台を演出する森崎真理(岡本多緒)は、観客に様々な打楽器を持たせて自由に劇に干渉できるようにしている。これは舞台と観客の境界を曖昧にする狙いがあるものだ。

 

自閉症の窪寺智樹(黒崎煌代)が、途中から劇に乱入してしまうのもそうだ。

彼は自らの特性ゆえに、その境界をあっさりと飛び越えてしまう。

 

また、舞台後のQ&Aで、自分自身の悩みを吐露したマリーに対して、真理が突如、自らがステージ4の末期がんであることを告白するのも、演者と観客の垣根を大きく飛び越えた行為だと言える。

こうして2人は、魂の出会いを果たした。

この映画は、観客が感情移入することを拒絶している

真理は、末期がん患者としてカテゴライズされることを好まない。

自分は無意識のうちに、本作を「真理を病人扱いしてはいけない」という、掟に縛られながら観ていた気がする。

 

彼女に病人という属性を当てはめて鑑賞することを、禁じられていた感覚がある。

本作は、真理に同情し、感情移入して観ることを拒絶していたと思う。

あくまでも、自分個人として真理とマリーの行く末を見届けることを強いられているような、そんな印象を受けた。

 

2人の会話シーンには、常に地雷原を歩いているかのような緊張があった。

マリーがもし不用意な一言を発したら、それで2人の関係は終わってしまうような気がしたからだ。

真理の「最期まで、ただの人間として扱われたい」という願望には、映画を観ている観客の心を縛ってしまう、不可視の圧力が宿っていた。

演出される、居心地の悪さ

マリーが観劇するシーンは、序盤のハイライトだった。

清宮吾朗が、観念的で小難しい独り舞台を繰り広げていく。

観る側としては、彼の動きやセリフに集中したいという心理が働く場面だ。

 

ここで窪寺智樹のうめき声がたびたび、吾朗のセリフに重ねられる。

そして最後は、彼が舞台に乱入して、芝居のリズムが乱れたようになる。

即興の中でなんとか成立はしているが、明らかに不協和を感じる場面だ。

このシーン、観るのがめちゃくちゃしんどかった。

 

映画に集中しようとする観客を、わざわざ映画のほうから邪魔してくるような感覚があって、不快に感じた。

でも同時に、これを不快だと思ってはいけない、という社会的なスイッチもオンになる。

なぜなら、智樹は自閉症という設定だからだ。

 

たかが映画なのにバカバカしいと思われるかもしれないが、彼の演じるキャラクターを疎ましく想うことに、罪悪感を抱かせられた。

おそらくそれは、真理やマリーの行動・言動によって、人との正しい向き合い方はこうあるべしと、物語のなかで高潔に示されるせいでもあると思う。

 

そして、智樹に対して生じるこの感情と、真理に対して気を遣わされる感覚は、何だか似ているなぁとも思ったのだ。

 

ちなみに、この劇中劇は、観客の発する音や智樹の声や乱入がノイズとなって入り込んでくる点で、マリーの実現したいエマニチュードの介護思想を取り巻く、現実の厳しい状況に淡く重なっている。

物事は、自分一人の思い通りにはいかない。絶えず周囲の雑音に晒されるものだ。

 

舞台を観たときのマリーは、自分の置かれた状況を「不可能」と感じていたが、自らの作品に他者を内包していく真理の思想を受け継ぐことで、最終的には、自身が理想とする介護の形に近づいていく結末となっている。

不条理に対抗する、手段としての理性

理性的であることは、世の中の不条理に対抗する有効な態度なのだと思う。

それは、真理が突如、資本主義の仕組みについて語り始めた真夜中の講義に現れている。

長尺かつイデオロギー満載なため物議を醸したシーンではあるが、これは真理とマリーの知的な交流であり、理性でもって自分たちが直面する困難に向き合わんとする姿勢を示していたものだ。

 

また、夜の散歩で車いすに座ったマリーを真理が押す場面や、仕事の疲れをほぐすために、真理がマリーにマッサージをしてあげる場面も印象的だった。

「末期がん患者」と「健康体の人間」という類型的な関係に押し込められることを、2人は受け入れない。

仕事に疲れた友人を、ただ、真理がマッサージして労っただけのこと。

そこに末期がん患者というフィルターを重ねる必要はない。

重ねてなるものか、ということだ。

 

マッサージを通じて、関係性を融和させる試みは、介護者と被介護者がお互いにマッサージし合う形として、後にマリーの施設でも描かれている。

理性を越えた、魂の告白

終盤、いよいよ日本の緩和ケア施設に移る真理に、マリーは帯同する。

真理の実家近くの山道で腰を下ろし、カップ麺ができるまでの2分半、2人は静かに語り合う。

時間が否応なく流れていく残酷さと、時間の流れが与えてくれるものを捉えた粋な演出だった。

 

いよいよ別れのとき、マリーは真理に「フランスに戻ること」を提案する。

ここで理性を越えた想いが、急激に表出する。

この転換はとてつもなくドラマティックだった。

 

2人はお互いに、ここで別れる決心をしていたはずだ。

しかし、話せば話すほど別れがたく、引き合ってしまう。

そして、これまでは理性的な交流を続けてきたはずの2人が、理性を越えた想いに突き動かされて、未知なる方角へと物語を歩み始める。

ここで2人は、遠くない未来、それぞれが「痛みを引き受ける」覚悟を決めた。

 

この「社会性ある理性」から「個人的な感情」への転調は、原作の終盤に磯野さんが、手紙の会話のなかで、それまで意識的に避けていた「死」について触れることの解禁を求めたエピソードに重なって感じられた。

手紙の締めくくりで磯野さんは、宮野さんに最期まで生き抜くことを求めて「絶対に死ぬんじゃねーぞ」と激励の言葉を投げかけた。

言葉は全然違うけれど、マリーの「フランスへ戻りませんか」という誘いは、最期まで生きることに2人で挑戦しませんか、という魂の告白だったと思う。

素敵な「ハチャメチャ」が起こった奇跡のようなとき

マリーと真理がフランスに戻ったあと、施設の中庭で、真理の書いた舞台劇「バザーリア」を再演することになる。

 

痛みをこらえながら吾朗の舞台を見届けようとする真理を、マリーは抱きしめる。

抱きしめるとともに、それは痛みに耐えながら「自立」する、真理の支えにもなっていた。

真理の発した「いたい」は、劇を見届けるためこの場に「居たい」でもあり、がんが身体を蝕むことによる「痛い」でもあった気がする。

ここでの真理の自立は、マリーが志す介護思想(エマニチュード)の「見る」「話す」「触れる」「立つ」という4つの柱に重なるもので、つくづく良くできた脚本だと感心してしまう。

 

舞台には、以前に智樹がしたように、施設の入居者たちが次々と乱入していく。

通訳のために設置していたディスプレイが倒れて壊れてしまう(通訳は越境のツールでもあるが、あちらとこちらを意識させるものでもある)。

転倒した利用者に、他の利用者が足のマッサージをしに集まってくる。

介護する者とされる者の境界が、曖昧になっていく。

まさしく、バザーリアという舞台のテーマに相応しい状況が立ち上がっていく。

 

ここまで群像的に描かれていた事象が、まさに一堂に会するような、カオスでハチャメチャでわけがわからない展開が巻き起こる。

この瞬間、真理の末期がん患者という属性が、場の混乱のなかに霧消したような感覚を覚えた。

この場面は、すべてが即興で演じられているのではないかと思えるほど、大変危ういバランスで成り立っているシーンだった。

まさに、濱口監督が折に触れて語っている「1度きりの瞬間を目撃する」感覚にあふれていた。

 

そしてこのシーンは、原作を読んだ人なら、宮野さんが磯野さんに送ったこれらの一文を思い出す場面でもあるはずだ。

でもこの一週間は、今まで私が出会い、つながり、関わってきた人たちと時間が一気に集約し、爆発した結果、素敵な「ハチャメチャ」が起こった奇跡のようなときだったといまさら振り返っています。

「意味がわかりません」「カオス」「わけがわかりません」「ハチャメチャ」。 ともかく何か、新しい何かが生まれたようです。

原作を読んでいない人に、このシーンがどう受け取られるのかはわからない。

「意味がわかりません」ってことになってしまうのかもしれない。

でも、このシーンがあるからこそ、この映画は『急に具合が悪くなる』足りえていると自分は思った。

あまりに長いが、切るに切れない3時間16分

体感時間がどうかは抜きにして、本作は物理的に長尺な映画だ。

尺を縮めるのであれば、舞台劇に関する要素は薄めるべきなのかもしれない。

夜勤の合間に、真理とマリーが資本主義について論じるシーンも、蛇足に感じられた人は多かったかもしれない。

 

ただ、『急に具合が悪くなる』を原作とした映画としては、どちらも切るに切れない要素だと思う。

舞台劇は、先ほど書いた「ハチャメチャ」を描くために必要な要素であり、物語を結実させるための舞台として、なくてはならない要素だった。

資本主義について論じる場面についても、2人が困難に理性で立ち向かう姿勢を描くために必要なものだ。

 

原作の専門家2人の抽象度の高い議論を、映画としてそのまま展開することは難しかったのだと思う。

会話劇としては面白くなるかもしれないが、それはもはや映画ではなくなってしまうだろう。

また、読者のペースで読み進められる書籍なら問題ないが、時間が自動的に流れていく映画で、原作と同じような会話劇をすると難解になりすぎる可能性もある。

(そもそも登場人物の経歴が原作と映画では異なるので、同じ会話内容が成立し得ない)

映画に立ち会う、という感覚

舞台に乱入する智樹を見たときの気まずさや不快さ、真理を病人として見てはいけない気がするという感情。

これは登場人物に感情移入して同化するのではなく、第三者としてそこに立ち会っている感覚に近いものだ。

演劇のシーンでは自分もその場で演劇を観ている気分になるし、真理が語る場面では自分もその言葉を受け止めて、無意識に思考させられている。どんな態度でいるべきかを選択させられていた。

 

本作の「映画と対峙させられる」感覚は、読書体験にも近いもので、原作と読者の距離感を、映画の形に上手くおきかえていたと感じる。

いわゆる「原作モノ」は数あれど、こういう作品のしつらえ方があるのかと、驚かされた映画だった。

濱口監督の次回作が、ますます楽しみになっている。

余談:本作は相互理解を描いていない。突如語られる、資本主義論の是非。

本作が批判されるとき、他者との相互理解を描いているのに、マリーと真理2人の世界に閉じて議論が進められ、さも問題が解消できたかのように描かれることの自己矛盾を指摘されているケースがある。

個人的には、本作に「相互理解」は描かれていなかったと思う。

描かれているのは、社会が引いた境界線に個人がどう向き合うか、という態度だ。

 

マリーは最終的に、真理のアイデアを受け入れながら、被介護者にカフェの運営を手伝わせたり、マッサージをさせたり、お互いが体重を預け合うようなストレッチを取り入れたりする。

利用者、介護者、看護師などの固定化された関係を、融和させる経営デザインを描くに至っている。

 

批判されているのをよく見かける、ホワイトボードを使って展開された資本主義論は確かに安易だし、その思想は偏っている。けれど、真理もマリーも経済の専門家ではないので、まぁそんなもんだと思う。

実際、あの場面は、マリーが直面している介護を取り巻く状況を整理するための議論としては、十二分に機能していたと感じる。

 

監督個人の思想がにじみすぎていないか? と思わなくもなかったけれど、映画とはそもそも俗人的なものなので、自分はこのバランスの悪さこそが、作り手の「持ち味」だとポジティブに受け取った。