『旅と日々』ネタバレ感想・考察です。本作は何を伝えたいのか、一体何が素晴らしくて評価されているのか、自分なりの解釈で解説しています。

『旅と日々』は、第78回ロカルノ国際映画祭のインターナショナルコンペティション部門に出品され、日本映画としては18年ぶりとなる最高賞の金豹賞を受賞した作品です。
受賞作だけあって、冒頭から途切れることなく、力のあるショットが連発されていきます。
映画が好きな人であれば、これだけでそこそこ観れてしまうのではないかと思います。
風になびく草木、大雨や海中でのシーン、演者が吐く白い息など、”自然のなかにある人”を描いた、ロケーションへの並々ならぬこだわりがビンビンに伝わってきます。
私は原作の、つげ義春氏の作品は未読なので、あくまでも映画単体としての感想になりますが、以下、自分なりの解釈や面白いと感じたポイントについて整理してみたいと思います。
今回は、解釈の幅が広い作品であることもあり、個人的な思い込みで語っている部分が多くなっていると思いますので、話半分くらいに読んでいただけますと幸いです。
- あらすじ
- 夏と冬との対比は、李の状況を反映している
- べん造と錦鯉
- 本作は、何がそんなにすごいのか?
- 「旅」と「映画」が、溶け合っていく
- 主人公の李が、脚本家である必然
- 旅を通じて、彼女が取り戻したのは、世界や誰かとつながる感覚
あらすじ
強い日差しが降り注ぐ夏の海。浜辺にひとりたたずんでいた夏男は、影のある女・渚と出会い、ふたりは何を語るでもなく散策する。翌日、再び浜辺で会った夏男と渚は、台風が接近し大雨が降りしきるなか、海で泳ぐのだった……。とある大学の授業で、つげ義春の漫画を原作に李が脚本を書いた映画を上映している。上映後、質疑応答で学生から映画の感想を問われた李は、自分には才能がないと思ったと答える。冬になり、李はひょんなことから雪に覆われた山奥を訪れ、おんぼろ宿にたどり着く。宿の主人・べん造はやる気がなく、暖房もまともな食事もない。ある夜、べん造は李を夜の雪の原へと連れ出す。
映画.comより一部抜粋
夏と冬との対比は、李の状況を反映している
夏編

夏編は、渚(河合優実)と夏男(髙田万作)の出会いの物語。
2人は出会って、雨に打たれ、いっしょに海に入る。
身体的な演出を通じて、2人の関係が描かれていきます。
そして、最後は波音と距離に阻まれて、彼女の言葉は届かずに終わります。
彼は、海に飲み込まれて亡くなってしまったのだろうか…
李(シム・ウンギョン)が脚本を担当したこの劇中劇は、おそらく意図的に、ビジュアルは力強く、脚本は腰が弱いアンバランスな作品として仕立てられています。
映画を観た識者からは抽象的な講評しか引き出せず、観ていた学生からも「自分には理解できない」といった声があがります。
登壇する李の自信なさげな様子からも、脚本のせいで、「“悪い意味での”アート映画」的な受け止めをされてしまうことに対する、不甲斐なさを感じました。
事実、彼女は、この映画について学生から感想を求められ「自分には才能がないことがわかりました」と自虐的なコメントをしています。
冬編

続く冬編は、冒頭で流れた劇中劇と対象的な展開となっています。
スランプ脱出のため旅に出た李は、宿屋の主人(堤真一)と出会います。
2人の間には言葉が少ないながらも、空間や体験を共有することで、徐々に相互理解が進んでいく。
特にラスト付近での「お前はべらべらとよくしゃべるの」という、べん造のセリフは、李自身の変化もそうですし、2人の関係性にも大きな進展があったことを確信させるものでした。
べん造の人物像は、当初は怪しげな世捨て人のように映りながらも、時間を経るごとに口数が増え、盛大ないびきをかき、タバコを吸い、どんどん人間臭くなっていきます。
その静かだが劇的な変化は、李が脚本家としての感性を取り戻していくことで、世界を再び新鮮なものとして感じられるようになっていく姿とも重なって感じられます。
寂れた宿に滞在することで、李は非日常を体験し、自分でも気づかぬうちに弱っていた、世界への好奇心を回復させていくのです。
べん造と錦鯉

李とべん造のエピソードのなかでも印象的なのが、隣村に錦鯉を取りに行く場面です。
侵入した家は、実はべん造の元嫁が生活する邸宅で、そこには離婚した際に別れた彼の幼い娘も生活しているのでした。
彼は娘に見つかって、自分がここに来たことは母親に内緒にするように伝えます。
同時に、抱っこしようかと言いますが、娘には拒否される。
べん造という人の、離婚に至るまでの人生が垣間見えるようなシーンに苦笑させられます。
彼はなぜ、錦鯉を取りに行くことを李に提案したのでしょうね。
一つは、李がべん造にした家族を思い出させるような質問によって、閉ざしていた家族への想いが刺激されたことがあると思います。
そして、もう一つは、このタイミングならお客を案内しているという方便を使って、嫁や娘の様子を見に行くことができたことも大きいでしょう。
いずれにしても、ひどく人間くさくて、みっともない男の姿がむき出しになるシーンです。
最後に、無理が祟ったべん造が熱を出し、病院に運ばれていくのも哀愁が漂います。
「いい映画はどれだけ哀しさが描けているかだ」という、劇中で語られた映画評のとおり、本作は、べん造という人の哀しみを、ユーモアも交えながら生き生きと描くことに成功しています。
本作は、何がそんなにすごいのか?

本作は、ロカルノ国際映画祭で最高賞の金豹賞を受賞しており、映画ファンからも絶賛されています。
しかし、必ずしもエンタメとして面白いから評価されているわけではないと思います。
年に数回しか映画館に行かない人にとっては、映画に求めるものと、本作から受け取れるものがミスマッチになるかもしれません。
人によって解釈は様々ありそうですが、自分が感じたのは、李とべん造の関係から「旅」の本質が見えてくることであり、それは「旅の価値」の再発見でもあったということです。
李が宿を探すときに、インバウンド客で混雑する宿で宿泊を断られるシーンが描かれます。過剰なまでのインバウンドによる繁盛ぶりが演出されていたのは、意図的でしょう。
俗っぽい、一般的な旅館が描かれることで、この後に登場するべん造の宿が、一層浮き世離れした存在に感じられます。
旅館のような「おもてなし」はなく、茶を飲むべん造の様子を伺う李は、客にも関わらず居心地が悪そうです。
元来、旅とは危険で驚きに満ちたものだったはずですが、現代ではおもてなしで舗装された道を気楽に観光することが「旅」になってしまいました。
つまり、現代人は「旅をしているようで、していない」のだと気付かされます。
「日々の延長」のような場所に行って、少し豪華な飯を食って帰って来ることを旅だと勘違いしているという、豊かな生活の内に隠れた貧しさを指摘されたような感覚がありました。
べん造と元妻の住居の対比も貧富を感じさせるし、錦鯉が鑑賞用だと何百万円だが、串刺しにして焼いたら「ただの川魚」という滑稽さにも、それは表現されているような気がします。
一方で、本作はいわゆる「本物の豊かさ」的なものを肯定しているわけでもないところに、作り手の誠実さを感じます。
べん造はちゃんと金に困っているし、家族に逃げられたし、熱が出てもやせ我慢するしかない。
インバウンド的な豊かさを揶揄しつつも、本物の豊かさ的な欺瞞も拒絶するスタンスには好感が持てました。
評価は人それぞれでしょうが、こんなふうに色んな角度から眺めて好き勝手に面白がらせてもらえる懐の深さは、いわゆるすごい映画の要素の一つではあると思います。
「旅」と「映画」が、溶け合っていく

本作は表面上、スランプに陥った李が旅に出て、変わり者の宿屋の主人と出会い、小さな非日常の世界に入りそして戻って来る、というシンプルな小冒険譚となっています。
ただ、映画を観終わってみると、なぜか生きる活力を分け与えられたかのような、心身に気力の満ちた気分にさせられていることに気づきます。
実は、現実世界で田舎町を訪れたときにも、似たような感覚になると思っていますが、あの言語化しがたい「旅」が持つ素朴なエネルギーを、映画として人工的に作ってしまったことが、個人的には驚くべきポイントでした。
というのも、テレビで流れているような世界各地の風景映像のようなものを観ても、実際にそういう気分になることって一切ないのですよ…。みなさんもないですよね?
しかし、本作で描かれる山や風、海、雪などの大自然、田舎の風景、屋敷への侵入で童心を刺激されるような感覚、べん造と李のとりとめない会話。
それらを通じて、なぜかは分からないけど、生きるのが少しだけ楽になったような気持ちにさせられるのは、何とも不思議な体験でした。
主人公の李が、脚本家である必然

田舎に傷心旅行にいくなら、仕事に疲れた会社員でもいいじゃないですか。
でも、そうではありません。
韓国人で脚本家、という異色の設定です。
韓国と日本の文化や言語の違いは、彼女の原体験として「人との分かり合えなさ」を根付かせたかもしれません。
彼女の恩師的な存在でもある魚沼の急逝は、異国の地における数少ない理解者の喪失となって、彼女の心を弱らせたような気もします。
そして、李の脚本家という設定は、劇中劇の存在と合わせて、「映画」そのものに対するメタ的な視点を想起させます。
映画と旅が重ねられていく後半の展開からは、実は冬編も、本当は劇中劇として描かれているのではないかと想像させられました。
李は監督自身の投影なのだろうか…
エンドロールのあとに、舞台袖から三宅唱氏が出てきたら、冒頭の劇中劇のくだりとまったく同じ構造が完成するよなぁ、とそんなことを考えながら観ていました。
旅を通じて、彼女が取り戻したのは、世界や誰かとつながる感覚

夏編では、男女が雨に打たれたり海に入るという身体的な表現により、2人の距離を近づけようと試みますが、結局、通じ合えないまま映画は終わりを迎えます。
海辺のベンチでの描写など、夏編のほうが男女の物理的な距離も近く描かれます。
でも不思議と、2人は「1人と1人」にしか見えません。

対して冬編では、李とべん造が一つ屋根の下で寝起きし、悪巧みをして共犯関係になるという、単純ながら解像度の高い絆の結ばれ方が描かれます。
最後、熱を出したべん造は病院に連れて行かれ、李は彼に見送られることもなく一人で宿を後にします。
2人の距離は遠ざかり、ひょっとすると2度と会うことはないのかもしれない…
でも、そこには間違いなく「温かなつながり」が残っていると信じられます。
夏編の海はあんなに寒々として見えたのに、最後の雪景色には温かみを感じる。
宿からの帰り道、李は一人で歩いているけれど、まったく孤独には見えないのです。
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