映画『敵』ネタバレ感想・考察です。敵の正体や儀助は認知症だったのかなど、解説しています。

主人公の儀助は元大学教授で、フランス文学の権威的な存在でした。
隠居して権威を退き、いまは後輩から雑誌の連載の仕事をもらって生活していますが、それもだんだんと難しくなってきている様子。
それは、フランス文学を必要としない世の中の変化が原因かもしれないし、パソコンで文字を打つのにも難儀するように、彼自身が能力をアップデートできていないことが原因かもしれません。
しかし、客観的に捉えると、それなりに小遣いが稼げる仕事があり、多少の人間関係もあり、文学という人生の友もあり、彼の老後は悠々自適に感じられます。
あらすじ

筒井康隆の同名小説を、「桐島、部活やめるってよ」「騙し絵の牙」の吉田大八監督が映画化。穏やかな生活を送っていた独居老人の主人公の前に、ある日「敵」が現れる物語を、モノクロの映像で描いた。
大学教授の職をリタイアし、妻には先立たれ、祖父の代から続く日本家屋にひとり暮らす、渡辺儀助77歳。毎朝決まった時間に起床し、料理は自分でつくり、衣類や使う文房具一つに至るまでを丹念に扱う。時には気の置けないわずかな友人と酒を酌み交わし、教え子を招いてディナーも振る舞う。この生活スタイルで預貯金があと何年持つかを計算しながら、日常は平和に過ぎていった。そんな穏やかな時間を過ごす儀助だったが、ある日、書斎のパソコンの画面に「敵がやって来る」と不穏なメッセージが流れてくる。
映画.comより一部抜粋
儀助は、自分がいつ死ぬかを決めている

儀助は、自分の貯金を切り崩しながら、上質で丁寧な暮らしを続けています。
その生活を維持するための貯金がなくなったら自死するつもりで、その日を彼は「Xデイ」と呼んでいるのです。
儀助のこの話を聞いたとき、『PLAN75』という、75歳を越えた老人が、安楽死できる制度が導入された世界を描いた映画のことを思い出しました。
PLAN75については、ディストピア感の強い作品ながら現実味はそこまで感じなかったのですが、本作の儀助(77歳)が自主的に実行しようとしている「PLAN-X」は、現代の中流層(生活にゆとりはあるが富裕層ではない人々)が直面する、生々しく恐ろしい現実を描いていると感じました。
儀助のセリフに「ただ、生き延びるために生きるってことを、どうしても受け入れられないんだよ」というフレーズが出てきます。
ここには彼の、生きるうえでの美意識が凝縮されているようにも感じつつ、これこそが後に彼を苦しめることになる「敵」の元凶であるとも感じられます。
「敵」とは何か?

本作には、人が晩年に直面する「何か」の象徴として「敵」という概念が登場します。
「敵」が具体的な何かとして明示されることはありませんが、これはいわば儀助の描く「PLAN-X」を前提とした生き方を阻むモノとして、多義的に描かれます。
一言で表現するなら、敵は「自分自身」の内にあるものと言えそうです。
ポスターのビジュアルで儀助が鏡合わせになっていたり、敵という文字が反転していたりしますよね。つまりはそういうことなのだと思います。
「敵」は、儀助自身の過去の選択や至らなさに起因する後悔として描かれることもあれば、年齢や外部的な要因による、人生の下り坂の一環として描かれることもあります。
たとえば、以下のような出来事はすべて「敵」であると言えます。
- 元大学教授としてのプライドが晩年のキャリアを閉塞させていく(安い公演料では引き受けない)
- 後輩から好意で原稿を依頼されているのに、締切に遅れがち(後輩だから遅れてもいいと甘えており謙虚さがない)
- 健康不安(年甲斐もなく激辛キムチを食べたことで血便が出て、精密検査することに…)
- 友人を失うことによる孤独の深まり(友人は病床で、儀助の耳元に「て…き…」と囁くが、これは友人の死も「敵」であることを示している)
- 身の丈に合わない性的な欲求(かつての教え子やバーで出会った学生に対する淡い欲望)

悲しいことに、バーで出会った学生には、結局、騙されてお金を取られてしまいます。
彼にとってお金は命の時間と同じですから、300万円という大金を失ったことで、彼のXデイは早まったと言えるでしょう。
他にも、井戸掘を通じて枯れることを受け入れる(老いを受け入れる)ことが暗示されたり、亡くなった妻の幻影から、妻への恋しさや夫婦生活に向き合わなかったこと、教授職を退いた際に身の丈にあった暮らしぶりへと適応できなかったことなど、過去の選択への迷いも描かれます。
また、庭に現れる叔父の亡霊を通じて、家系を絶やすことへの罪悪感や子を成せなかったことへの後悔も滲みます。
これらはすべて、平穏な老後の「敵」となって、彼を襲います。
そういえば、途中の彼の妄想のなかで、女性の医者に直腸検査される場面も出てきました。
あれは自分の過去の地位やちっぽけな男のプライドを捨てて楽になりたいという、願望の現れだったのかもしれないし、男尊女卑的な思想を持っていた、かつての自分に対する罪の意識なのかもしれませんね。
儀助は認知症ではない

本作の一番の見どころでもある終盤の大転換。
元教え子から「私としたいの?(セックスしたいの?)」と聞かれたり、死んだはずの妻が現れていっしょにお風呂に入ったり。
夢とも現ともつかない、妄想のような世界をどう読み解くべきなのでしょうか。
最初は、儀助の認知症が進行したのかと思ったのですが、原作の筒井康隆先生いわく、儀助は認知症じゃないとのことです。
たしかに、本作の時間経過は夏から春までの半年しかないので、認知症と言っても年相応の衰え程度だと考えれば、別に原因があったと考えられます。
しかし、だとすると本作はもっと恐ろしいことになります。
あれは「敵」に追い詰められた儀助の精神が、崩壊していく様が描かれていたことになります。
頭が良い人ならではの狂い方とでも言いましょうか。
死んだはずの妻が現れるときに、儀助が彼女のコートを常にそばに置いていたのは興味深い点でした。あの描写から、現実に妻はその場にいないけど、儀助が彼女の存在を妄想していることが、はっきりと理解できました。
どんなに賢く理性的な人にも、「敵」はやってくる

それまでに積み上げてきたものがある人ほど、それが損なわれていく不安や恐怖は大きくなるし、社会的なパワーの衰えも精神を蝕みます。
儀助はそういった未来がくることを予見し、心の準備をしていましたが、いざその事実が押し寄せてくると冷静ではいられず、日常は狂い始めてしまいました。
さらには、いざ死のうと思っても、自死の恐怖は生半可なものではありません。
首をくくった直後に、様々な不安や幻聴に襲われ、彼は死にきれずよろよろと立ち上がる。

その後の結末から想像するに、結局、儀助は自分の意図したタイミングで死ぬことはできなかったように見えます。
物語は夏から始まって冬が来て、春に儀助の死後、親族が集まっている様子が描かれて終わります。
甥っ子が家のなかを探索すると、儀助の生前の痕跡がいくつか見つかり、彼の妄想の一部は現実におきていたことだと暗示されます。
自死できなかった冬の日から、春に儀助が死去するまでのしばらくの間、彼の尊厳は保たれたのでしょうか。それとも、道行く人を怒鳴りつけていた近隣の老人のように、世間に醜態を晒してしまっていたのでしょうか。
彼の晩節に同情するとともに、遠い将来、自分にも「敵」がやってくる恐怖を感じました。
死の直前の儀助が、みんなと出会える春が来ることを待ちわび、穏やかな様子だったことだけが唯一の救いです。
いわゆるホラー映画よりもよほど恐ろしい、社会的な恐怖を描いた傑作だと思います。