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映画『海辺へ行く道』感想:アート映画を通り越した、“アート展”映画

映画『海辺へ行く道』のあらすじと感想・考察です。本作のテーマを掘り下げつつ読み解いていきます。

独特だなぁ、というのが率直な感想。

『海辺へ行く道』は、1本の映画というより、劇中でテーマにまつわる複数の映像が展示されている“アート展”のような印象を受ける作品です。

 

群像劇でありながらオムニバス形式という、かなり実験的な構造であるため、提示されるエピソードの数々は、一見すると散漫にも映ります。

 

ただ、それは失敗とも言い切れず、原作漫画の持つ魅力や感性を、一つひとつ「鑑賞する」ように見せているようにも映りました。

観る人によって十人十色の解釈が生まれるタイプの映画だと思います。

 

本編は「長いつばの女」「夏の終わりのミメーシス」「どこかに穴でもできたのかい」の3章から成るオムニバス形式になっています。

せっかくなので、章ごとに振り返ってみたいと思います。

 

あらすじ

瀬戸内海の海辺の町でのんきに暮らす14歳の美術部員・奏介。この町はアーティスト移住支援を掲げ、あやしげなアーティストたちが往来している。奏介とその仲間たちは、演劇部に依頼された絵を描いたり、新聞部の取材を手伝ったりと、忙しい夏休みを送っていた。そんな中、奏介たちにちょっと不思議な依頼が飛び込んでくる。

映画.comより抜粋

「長いつばの女」

芸術と性欲、あるいは性的な魅力がテーマとなっていそうな章。

立花良一(中須翔真)は、祖父が自分の母親を性的な目で見ていることに嫌悪しつつも、自らも祖父がしたように海辺で見かけた魅力的な女性をカメラで隠し撮りしてしまう。

 

怪しげな商売人の高岡(高良健吾)は、自らの性的な魅力を使って島の奥様連中を虜にする。
そして、芸術的とも言える売り口上を武器に、なまくら包丁や怪しげな化粧品などを売りさばき、逃げ去っていく。

 

高岡の恋人のヨーコ(唐田えりか)は、奔放で健康的な色気にあふれる女性として描かれます。

彼女は芸術の世界においては、被写体・題材のポジションにいる人です。そこに存在するだけで、芸術家のパッションを燃え上がらせるような魅力を放っています。

生足を見せる大胆なファッションで、自転車にまたがって坂を下っていく姿は、芸術家でなくとも被写体にしたいと思わせる魅力に満ちていました。

シュールなお祭り行事「静か踊り」

彼女が参加したお祭りの踊りも独特。

「静か踊り」と呼ばれるもので、BGMなく無音で踊り続け、最後まで無表情で踊り続けられた人の勝ちという謎ルール。

 

芸術に引き寄せて解釈するなら、いわゆるデッサンモデル的なものに近いのかもしれません。モデルは、決められた形、決められた表情で居続けることが求められます。

 

ヨーコは無音で踊り続けるシュールな状況に耐えられず笑ってしまい、早々に敗退しました。つまり彼女は、被写体としての魅力に満ちながらも、被写体に必要な資質を備えていなかったと言えるのかもしれません。

「超能力」が使えるという、不思議な設定

この章の主役である、立花良一に、超能力らしき力があるという設定も不可思議でした。

 

これは、そういう世界観なのだとそのまま受け取っても問題ありませんが、子どもが徐々に男性的な力を身に着けていく過程で備わってくる破壊的な力や、持て余す性欲のメタファーと解釈しても差し支えない内容でした。

 

あるいは、少年がヨーコと出会うことによって、性的なエネルギーが高まっていくことを伝えているのかもしれません。

「夏の終わりのミメーシス」

ミメーシスとは、西洋の哲学・美学上の概念で「模倣」を意味する言葉です。

劇中では、テルオが「表面的な形を写すのは単なるモノマネで、モノの成り立ちかたを知って、別のモノで表現するのがミメーシス」だと説明しています。

 

もう少し抽象的に捉えると、両者には、物事を深いところまで理解しようとするか、表面的な理解で終わるかの差があるとも言えます。

南奏介が人魚の絵画から立体の造形物を製作するのは、わかりやすいミメーシスの例だと言えますが、物語のなかにも抽象化された形で「ミメーシス:非ミメーシス」の構造が何度も繰り返され、意識的に描かれていることが見えてきます。

そのミメーシスは、本物か?

梨本テルオ(蒼井旬)は、知り合いのおばあさんを喜ばせるために、死んだおじいちゃん(おばあさんの夫)に似せたマスクを造ります。

おじいさんに変装したテルオを見たおばあさんは感激して、「今度は私があなたに会いに行くわね」とテルオに囁いた。

 

ここまでは良かったが、帰り際に変装したままの姿で娘と鉢合わせしたせいで大騒ぎに。

盗まれた、おばあちゃんのタンス預金のことも疑われて訴えられてしまう。

 

大人たちは、テルオ君の意図を汲み取ろうとしません。

若者がおばあさんに近づいた=お金目的と短絡的な思考で、テルオに罪を着せようとします。

 

この場面は、大人たちが真実を見ようとしない姿が描かれています。

 

一方で、弁護士から「実は翌日におばあさんは亡くなった」と聞かされたテルオは言葉を失います。

おばあさんが死んでショック、というだけではありません。

 

良かれと思ってやったはずの行為だが、本当に正しかったのか疑問を感じてしまったのでしょう。

つまり、ミメーシスだと奏介に得意げに語ったはずの創作が、実は浅い理解に基づいた軽薄なものだった可能性にぶち当たったわけです。

だからここでは、おばあさんの死にショックを受けただけでなく、自らのアイデンティティを揺るがす事態に動揺しているとも考えられるのです。

子どもの正義 vs 大人の正義

中学生新聞のネタを探していた平井ほのか(山﨑七海)は、レクリエーションの一環として、炎天下で長時間、歌を歌わせていた介護スタッフの姿を発見し、動画に収めた。

しかし、この動画が顧問の教師に見つかり没収されてしまう。

 

後日、この動画がSNSにアップされたことで拡散され、その介護スタッフは懲戒解雇となってしまいます。

ここでは、教師が暴露系のYOUTUBERだったり、正義の味方のマネごとをしていたように見えます。


平井ほのかは、もともと介護スタッフに取材をする予定でしたが、教師の横槍によりそれは叶わず。真相は闇のなかで、介護スタッフがどんな考えで老人を歌わせていたのかは分からずじまいです。


ただ、このスタッフは認知症の利用者さんを回復させてきた実績もある人だったとも言われており、もしかしたら、彼女なりの意図があっての行動だったかもしれません。

 

真実に迫る機会が失われ、ほのかにとっては悔いの残る結果となりました。

ほのかは、中学生新聞を本物の新聞と同様に扱おうとしていました。

一方で、顧問の先生は、しょせんは中学生の記者ごっこだと、心のどこかで軽く考えていた。

ここでもミメーシス的か、ただの真似事なのかという対比構造が浮かび上がります。

 

日常のなかに「ミメーシス」という物差しを持ち込むことで、様々な事象をあちらとこちらに分断できてしまう視点は、とてもユニークな試みでした。

「どこかに穴でもできたのかい」

テルオの言葉が象徴的です。

 

「芸術家は自称であるべき」

「肩書や認められるためにやるものじゃない」

「やりたいからやるもの」

 

最後は、芸術をテーマとした本作のまとめの章となっていた印象を受けました。

芸術とは何か?

何を持ってアーティストなのか?

才能とは?

 

個人的には、人は何者かになりたがるが、往々にして、その人がなりたいものにはなれず、生きたいように生きられないことも描いているように見えました。

そして、これは物語の結論じみたところでもありますが、最後には、その内省的な縛りから解放されて自由になることが肯定されているとも感じました。

なりたい自分になれなかったメグとケン

アーティストから借金をとりたてる大林メグ(菅原小春)は、アートの街のなかで、非芸術的なものの象徴として描かれます。

彼女はもともとブライダルの仕事に就くことを志していました。ブライダルと借金の取り立ては、ハレとケで対極的な存在と言えます。

 

メグの幼馴染の谷川理沙子(剛力彩芽)は、街の不動産屋で働いています。

彼女は、街にやってきたアーティスト岡野ケン(村上淳)に恋をします。

その岡野ケンは、作品を作らずにふらふらしている。作品は作らないが、おいしい手料理を理沙子にふるまう。律儀に毎朝弁当も作っている。

自称アーティストは、作品づくりには手がつかず、持て余した創作欲を料理にぶつけているようにも見えます。

 

メグはケンが住む部屋からイルカが見えることがあると話します。イルカを見たアーティストは、良い作品を作れるジンクスがあるのだと。

2人は創作が停滞したままの生活を肯定して、本当に見えるのかどうか不確かなイルカの出現を待ち続けます。世の自称アーティストと彼・彼女を支える恋人の姿を写し取ったような構図です。

 

のちにケンはメグの会社から借金をしていることが判明します。彼はお金をもっているけど、返したくないと言います。

しかし、最後にお金が返済されたことから実際にケンはお金を持っていたと考えられますが、じゃあなぜ返したくなかったのか?

 

おそらく、夢のために借金することで、自称アーティストで居続けられるからではないのか。

想像でしかないけれど、ケンは実家が金持ちで生活にも困らないけど、何者にもなれなくて苦しんでいる人に見えました。

「カナリアの笛」の意味するところ

何をもって芸術家とするか。この問いに呼応するアイテムも登場します。
カナリアの笛です。

才能のあるアーティストが吹くと綺麗なさえずりが響くが、そうでない人が吹くと良い音がでないというもの。

 

多くのアーティストは、笛を吹くことを拒否します。

さらっと描かれますがここは重要で、才能の有無という、現実に向きあうことの怖さを暗に示すものでした。

 

きっとケンもそうなんですよね。

作品と向き合うことは自分の才能と向き合うことでもあるから、それが怖くて料理に逃げているのでしょう。

 

彼が最後に借金を返したのは、良一たちが流木を集めて楽しそうにしている姿や落とし穴のだまし絵を創っているときの、泉から才能が湧き出てくるような瑞々さを目の当たりにしたからかもしれません。

それで諦めがついたのかもしれない。

最後に、メグは理沙子にカナリアの笛を吹かせる。

 

笛はみごとにさえずりを響かせ、驚くメグに「ただの笛だよ」と理沙子は答えます。

そして、改めてメグも笛を吹いてみると、同じようにカナリヤのさえずりが響き渡ります。

 

何者かにならねばならないという圧力から解放され、自由な心を持つことこそが、本当の芸術の素養ということなのかも。

 

そういえば、カナリアといえば「炭鉱のカナリア」を想起させますね。

カナリアが鳴かないのは危険の知らせとも言えます。

そんなふうに解釈すると、街にきた当初、笛を吹けなかったメグは、人生の危機にあったと言えるのかもしれません。

街に戻って来たことで、メグは救われたのだと思います。

テルオのその後に、陰りを感じたのは気のせいか

これは余談ですが、テルオが笛を吹くシーンがないことも意味深です。

 

良一と比べたときに、テルオの才気にはどこか陰りが見え始めているようにも見えました。転機はもちろん、おばあさんの死の一件からでしょう。

彼は自分の才能を疑い始めてしまった。

 

東京から久しぶりに戻ってきたテルオが「おまえもアトリエにこいよ」「講習を受けたら1ヶ月でもだいぶ上手くなる」と良一に話す姿から、創作の自由さが損なわれ始めているように見えたのは、気のせいだろうか。

 

浜辺で「(創作は)肩書や認められるためにやるものじゃない」と話した、自らの言葉と自己矛盾していることに、テルオはたぶん気づいていない。

何と言うか、テルオの様子が、ひと足早く大学に進学した先輩が、夏休みに帰省したときにおかしなテンションになってしまっている姿と重なって見えてしまったのでした。

捉えどころのない映画だが、ノビノビ作られてそうな感じが心地良い

「この映画のジャンルは横浜聡子(監督)だ」っていう感想を書いている人がいて、確かに!と思いました。

 

個別のシーンを切り取ると、ハッとさせられるようなフレーズがでてきたり、対比構造があって、映画として退屈はしません。

 

海辺の街のロケーションもショット映えしていました。ビジュも最高。

作品のルックとシナリオの構造に夏らしい開放感があって、映画の枠から少しはみ出たような感覚がとっても心地良かった。

 

ただ、観終わったあとに、どういう話なんだっけ?と聞かれても、なんか上手に答えられないのですよ。

たとえば「唐田えりかの自転車で坂を下っていくシーンが良かった」みたいに、場面でしか答えられない感じ。

 

やはり、群像劇×オムニバス形式にしたことで、物語が散らばりすぎたのが原因なのだろうか。でも、それが本作のフィーリング的な魅力につながっているような気もして、一概にダメだとも言い切れない。

 

独特な作風。まさに横浜聡子ワールドとしか言いようのない、不思議な作品でありました。

早くも次回作が気になります。

このお方、次はどんな映画を作るのだろうか。