『消滅世界』ネタバレ感想・考察・レビュー。タイトルの「消滅世界」が意味することや本作が描きたかったものについて解説します。

人工授精が9割となり、夫婦の性交渉は近親相姦と言われ忌避される。
夫婦と恋人の役割が分離して、SEXは家庭の外でするものとされている。
本作で描かれるのは、非現実のようで、よく考えたら現実のすぐ延長にある奇妙な世界です。
“もしも世界がこうなったら、あなたはどう考える?”と問われ続ける映画で、観終わったあと、すぐに答えの出せない重い宿題を受け取った気分になりました。
- あらすじ
- 非現実なようで、実はかなり現実世界に近い状況が描かれている
- 本作を、SFとは捉えないほうがいい
- タイトルの「消滅世界」が意味するところ
- アダムとイブの「逆」
- 余談:「子どもちゃんへの、愛情のシャワー」というパワーワード
あらすじ
人工授精で子どもを産むことが定着した世界。夫婦間の性行為はタブーとされ、恋や性愛の対象は、家庭外の恋人か2次元キャラであることが常識となっていた。そんな世界で、両親が愛し合った末に生まれた雨音は、母親に嫌悪感を抱いていた。自身の結婚生活では家庭に性愛を持ち込まず、夫以外の人やキャラクターを相手に恋愛をする雨音だったが、実験都市・楽園(エデン)に夫とともに移住したことで、彼女にとっての正常な日々は一変する。
映画.comより一部抜粋
非現実なようで、実はかなり現実世界に近い状況が描かれている

家庭内でSEXは厳禁で、SEXをする相手は家の外に恋人を作るか、2次元キャラクター相手にすることが常識という世界。
変だと思うかもしれないけど、言葉を変えれば「SEXレス」であり「不倫」のようなもので、実は現実世界では「ときどき」「しばしば」起こっていることだったりします。
ここでは、それを「常識」と振り切らせているに過ぎず、私たちの世界と“遠からず”な状況であることが、本作の持つ奇妙なリアリティの正体です。
観客の代表者的な立ち位置として、主人公・雨音の母親が出てくるのですが、実を言うと、この母親の主張する“夫婦が愛し合って子どもが生まれるのが普通”という考えは、すでに私たちの現実からは乖離し始めていて、少し時代遅れだと感じてしまったほどです。
本作を、SFとは捉えないほうがいい

これはあくまでも、思考実験的な問いの物語であり、SFではないと受け止めました。
というのは、恋人を外部に作るという発想は、現実に立脚しないと思ったからです。
もしも、本作のようなことが実際の現実で起こった場合は、性の外注化となり、それは一般異性が相手ではなく、プロ(風俗産業)によって解消されるようになると思います。
仮にそうだとしても、相手が生身の人間であり人に感情がある以上、我々は相当な抵抗感を持つはずです。
この劇的なパラダイムシフトを人類が受け入れるに至る、正当な理屈が示されないのは、本作の唯一の残念な点かもしれません。
現実的には、夫婦と恋人の役割が分離されている状態は違和感があるのですが、本作ではあえて「恋人」と「夫婦」を分けて描くことで、その困難さや歪さを観客に提示したかったのだと思います。
あえて、恋人や夫婦という概念を極端に描き、それを否定することで、物語の後半に描かれる、夫婦や家族を超越した場所である「エデン」の存在が肯定されていく構造になっています。
タイトルの「消滅世界」が意味するところ

本作において何が消滅するのか。
物語の幹となるのは「性」の消滅です。
人工授精をはじめとして、性的な交渉が消えていく世界が描かれます。
そして本作では、関係性の消滅も描かれます。
夫婦や恋人という関係の輪郭が消滅し、男性が妊娠・出産できる世界になることで、男女の違いが消滅。
性別年齢を問わず、すべての大人が「子どもちゃん(子どもみんなの)」の「お母さん」になることで、独身やパパ、ママの境界も崩れていきます。
最終的には、人類が一つの大きな家族となることで、旧来の家族の意味も消滅していくことが示唆されます。
そしてラスト。
雨音が自分の子どもと、「性交渉をしようとしている」かのような場面が提示されます。
そこで描かれるのは、親と子という概念の消滅でしょうか。
それとも倫理観の消滅なのか…
アダムとイブの「逆」

物語のなかでアダムとイブの話が登場し、「その逆」についての言及がありますが、まさしく物語は神話の逆再生を描いています。
本来のアダムとイブの物語は、神によって最初に創造された人間のアダムがいて、彼の体の一部からイブが作られます。
2人は夫婦となりますが、あるとき蛇にそそのかされて知恵の実を食べた2人は、エデンを追放され、様々な苦しみのある世界に生きることになります。
ところが本作では、人間関係の苦しみから逃れるためにエデン(政府の施設)に入居し、夫婦や恋人、家族といった関係からもたらされる苦しみから解放され、最後は、雨音と少年(雨音の子どもと思しき人物)が結ばれて終わります。
少年は人工的な子宮により誕生した、世界で初めての子どもです。
少年の誕生は人類が神に近づいた瞬間だとも言えるし、少年は神=人間が最初に創ったヒトだとも言えるでしょう。
ラスト、少年を抱きしめる雨音のカメラ目線で映画は終わります。
カメラ目線には、映画の世界と観客の世界をつなげる効果があると思います。
2人がアダムとイブだとすると、それを監視していた私たちは、ひょっとすると神の立ち位置なのではないか。
こんなディストピア的な世界を創るも創らぬも、私たちの手に委ねられているとでも言いたげな終幕は、とても居心地が悪く、映画を観て何を感じたかを試されているような気持ちにもなりました。
自分が一番ぞっとしたのは、男性と女性の性別的な役割分担が消滅した世界では、家族という概念も消滅してしまう可能性が示されていたことです。
現実とはすごく遠いはずなのに、とても身近なテーマだと感じさせられる不思議な作品でした。
余談:「子どもちゃんへの、愛情のシャワー」というパワーワード
劇中で「子どもちゃんに愛情のシャワーを浴びせてあげましょう〜」みたいなセリフがあって、ゾッとしました。
これ聞いた瞬間、本来、凶器じゃないもので殴り殺されたような気分になりました。