「ゆきてかへらぬ」ネタバレ感想です。

詩人の中原中也。文芸評論家の小林秀雄。そして、女優、長谷川泰子。
実在する3人の恋愛もからめた人間模様が描かれた物語。
予告編だと三角関係にスポットが当てられているように見え、内容を誤解して「じゃあ観なくていいか」と思ってしまった人も、多かったのではないでしょうか。
観る前は「愛憎劇」のイメージを持ってしまっていたのですが、実際にはまったく異なる内容でした。
同じような理由で敬遠していた方がいたとしたら、配信されたいまだからこそ、この映画はぜひ観たほうがいいです。
- 中原が創った詩を小林が批評することで、2人の関係は成り立っている
- 泰子を通して、中原と小林が通じ始める
- 中原の眼にも小林の眼にも、泰子は映っていない
- とんでもなく面白い映画だけど、劇場で観るとそれが伝わりにくい
- 現代人のほうが、むしろ中原・小林的なコミュニケーションの理解者になれる
中原が創った詩を小林が批評することで、2人の関係は成り立っている

この映画、泰子、中原、小林の三人の関係を描いているように見えて、実際には中原と小林の関係こそが主体なのだと感じました。
泰子を演じるのが広瀬すずで存在感も強いので、特に予告編などではそういう見せ方になっていましたが、実際には違う物語に見えました。
誤解をおそれず言うと、中原と小林は、いまどきの表現で言うとオタク的な人物なんです。
つまり、二人は直接的なコミュニケーションができない。
なにかモノを介さないと、お互いの感情や価値観の交換ができないのです。
詩人と評論家という関係が絶妙で、詩人同士や評論家同士ではないため、お互いを認め合いつつも、純粋なライバル関係にはなりません。
対立じゃないんです。
並び立っているイメージがあります。
泰子を通して、中原と小林が通じ始める
そんな中原と小林の不思議な関係の間に入ってしまったのが泰子という、いわば増幅装置です。
泰子は女優を志す女性です。女優というのは、脚本を受けて、自らに役を降ろす仕事。もちろん表現者ではありますが、超高性能の受信機でもあります。
中原と小林の考えていることや感情が、泰子の反応を通じて描かれていきます。
泰子があまりに受信機としての性能が良すぎるが故に、片方と同棲すると一方の影響を強く受けすぎておかしくなってしまいます。
劇中では中原と小林のことを「つっかえ棒」と表現していました。
片方だけでは支えられず、傾き崩れてしまう。男二人がちょうどいい距離感で、バランスでいないと、泰子はダメになってしまいます。
駆け出しの女優、長谷川泰子は、不世出の天才詩人、中原中也に出逢ってしまった。中也に出逢うということは、後に日本を代表することになる文芸評論家、小林秀雄に出逢ってしまうことだった。
映画のあらすじ紹介の一文が、この作品を鋭く一言で表現していて鳥肌が立ちました。
「中原に出逢うということは、小林に出逢うこと」
これが映画の全てと言ってもいいくらい。
中原の眼にも小林の眼にも、泰子は映っていない
最初、泰子は中原と同棲します。でも、途中で中原と別れて小林と同棲します。
中原と小林は友人関係だから、たしかに三角関係と呼ぶことはできる。でも、全然違う。
泰子が中原をふって、小林と同棲したあとも、中原と小林の関係は当たり前に続きます。
普通だったら、あり得ないじゃないですか。でも、その奇妙な関係が観ている側にとっても、意外としっくりきてしまうのは、中原と小林の関係があまりにも特殊だからです。
中原は泰子を通じて小林を理解し、小林もまた泰子を通じて中原を理解しようとします。小林が泰子を抱く際に、泰子の身体を通じてより深く中原を理解することができる、といったニュアンスの描写があるのですが、かなり倒錯した思考です。
泰子は二人の異常な関係に巻き込まれ苦しみますが、最後にはこの特殊な関係を受け入れたようにも見えました。
とんでもなく面白い映画だけど、劇場で観るとそれが伝わりにくい
中原と小林の関係に着目して観ると、三人の関係が非常に面白く見えました。
一風変わってはいますが、人間の内面を掘り下げた素晴らしい作品です。
ただ、映画としての評価は厳しめになるだろう、とも思います。
実はこの映画、配信で観たほうが良い評価になる可能性があります。
今回は配信で観ましたが、結果的にそれが功を奏したかもしれない。
<二人の会話を理解するには、日本語字幕が必須>
この映画、日本語字幕を付けてみたほうがいいです。
言葉遣いが若干古めかしいので、一般的な邦画よりもセリフが聞き取りづらい上に、中原と小林の会話がいわゆる「インテリの会話」なので、難しい言葉をけっこう使います。しかもその単語についての説明が劇中にはないです。
たとえば、エピゴーネン(創作における「模倣者」「追随者」的な意味)、コキュ(フランス語で寝取られた男のこと)のような言葉が出てきます。
劇場で見ていたら、スマホで調べるわけにもいかないので、わからないまま見るしかなくなります。
<時間がゆるせば、中原中也の「詩」を調べながら鑑賞したい>
中原が詩人なので、劇中には実際の中原の詩が何度も出てきます。
自分や相手のおかれた状況、感情などが表現されているのですが、なにせ「詩」なので意味を即座に理解するのが難しいです。
少し立ち止まって、都度、咀嚼しながら観たほうが心情理解が捗ります。
たとえば、タバコとマントの恋は、男女が心中する話で、それぞれ別々の事情があるのだけど、結果的に地面に落ちるタイミングが同じだから心中になっているね、という意味にも読めて、劇中で描かれる二人の関係が本質的にはすれ違っている様が示唆されているようでした。
詩の解釈は個人によっても随分変わりそうですが、中原の感じていることを自分なりに理解するためには、詩をじっくりと読み込む時間がほしいところです。
映画鑑賞のお作法としては邪道かもしれないけど、この映画に限ってはそのほうが楽しめる気がしました。
現代人のほうが、むしろ中原・小林的なコミュニケーションの理解者になれる
何かについて語ることが自分を表現することにもなっていて、その語りのなかには自分自身の価値観とか思想とか、魂の一部が含まれているような気さえする。
この感覚は、SNSなどで作品や感想を発表する場をみんなが得た現代のほうが、理解されやすい思想なのかもしれません(昔は、詩作や評論は庶民のものではなかったでしょう)
映画は、明治から大正へ移り変わる頃の話ですが、描かれている価値観そのものは、まったく色褪せたものには感じず、むしろ現代的な葛藤や苦悩が描かれているようにすら思います。
そういう意味で、いま公開されるべき作品だし、いま観るのが一番面白い映画なのではないかと感じました。
今回、中原と小林の関係にわりと共感してしまったのでこのような感想になりましたが、泰子の視点で鑑賞すると、まったく異なる読後感になるかもしれません。
いずれにしても、とても良い作品なので、迷っている方はぜひ観てみてください。
