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映画『8番出口』ネタバレ考察・感想:主人公が彼女となぜ別れたのかを考えると、俄然面白くなる

映画『8番出口』のネタバレ考察・感想記事です。あらすじ紹介のほか、主人公の喘息の設定、おじさんの正体やループの意味などについて掘り下げていきます。

映画のリリースを知って、8番出口の原作ゲームをプレイしてみたくらいには楽しみにしていた映画です。

結論から言うと大満足でした。


あの超シンプルな間違い探しゲームから、こんなふうに膨らませて映画に展開できるのかと感動しました。

少しだけ主人公が成長するという王道的な結末ながらも、そのプロセスはホラーエッセンスを持たせつつも、アーティスティック。
主人公が迷い込むループ世界に、見入ってしまう95分間でした。

 

すごく良くできた映画だと思ったので、今回は、その辺りを読み解いていくような形で感想を書いていきます。

 

あらすじ

蛍光灯が灯る無機質な白い地下通路を、ひとりの男が静かに歩いていく。いつまで経っても出口にたどり着くことができず、何度もすれ違うスーツ姿の男に違和感を覚え、自分が同じ通路を繰り返し歩いていることに気づく。そして男は、壁に掲示された奇妙な「ご案内」を見つける。「異変を見逃さないこと」「異変を見つけたら、すぐに引き返すこと」「異変が見つからなかったら、引き返さないこと」「8番出口から、外に出ること」。男は突如として迷い込んだ無限回廊から抜け出すべく、8番出口を求めて異変を探すが……。

映画.comより抜粋

繰り返しを暗示するBGM『ボレロ』が意味すること

劇中ではラヴェルの『ボレロ』という曲が象徴的に使われます。

これには、単純に、同じメロディを繰り返すことと、地下通路のループ構造を結びつける意味もありますが、他にも重要なメッセージがこめられています。

 

冒頭、ボレロが流れるのは、主人公である「迷う男(二宮和也)」がイヤホンをつけているときです。

イヤホンをはずすと、周囲の環境音、たとえば乗客の赤ちゃんの鳴き声が聞こえてくる。
冒頭ではあえて、鳴き声が不快に聞こえるレベルにチューニングされているのは意図的でしょう。

 

そして、もうひとつボレロを中断するのは、迷う男の彼女(小松菜奈)からの着信です。彼女は主人公に、妊娠したことを告げます。

つまり、ボレロが暗示する「繰り返しの毎日」を打ち破るのは、赤ちゃんの声と彼女からの妊娠連絡ということです。

 

このように、主人公が地下通路に迷い込むまでの短い展開のなかで、地下通路のループ構造は、彼自身の堂々巡りする心の迷いでもあることが、かなりはっきりと明示されます。

こどもの登場は“異変”ではない

地下通路を進むには、異変を見つける必要があります。
壁のポスターの目が動いて主人公を追いかけたり、案内板の文字が「引き返せ」になっていたり。

 

あるとき、主人公の目の前に、男の子が現れます。
彼は子どもの登場を、上記のような異変の一種と認識しますが、すぐにそうではないことがわかります。

 

特に男性にとって、子どもはあるとき突然、授かるものだったりします。
曲がり角の先に、ふいに男の子が現れる演出は、冒頭で彼女から妊娠を告げられた状況とも符合します。

そして、この状況が物語るのは、ある日、自らの人生のなかに子どもが現れることは、異変ではないということも示唆しているのでしょう。

通路は産道のようでもあり、主人公の生まれ変わりの物語でもある

また、子どもと一緒に、通路を進んでいく展開も意味深です。

 

主人公が見逃してしまった異変に、子どもが気がつきます。
しかし、主人公が子どもを無視して進んでしまうことで、異変に気が付かず、振り出しに戻されてしまいます。

 

ちょっと説教臭いような気もしますが、この辺りのシークエンスは、子どもと向き合うこと=出口への前進というメッセージが感じられるところです。

つまるところ、迷う男が少しずつ、生まれてくる子どもを受け入れるための、心の準備(精神的な成長)をしていくことを、地下通路のループと異常の発見を重ね合わせて描いているわけですね。

 

そして、通路に登場する子どもは、これから生まれてくる我が子のメタファーでもあります。

そんなふうに解釈していくと、村上春樹っぽい発想ですが、この通路は産道のようにも思えてきます。
子どもにとっては、まさに生んでもらえるかどうかの瀬戸際だし、主人公にとってはこれまでの自分からの生まれ変わりの意味も持つでしょう。

主人公の不快な“咳”の演技は何を意味するのか

彼が地下通路に迷い混んでいく冒頭から、猛烈に咳き込み始めます。
単なる喘息の設定にしては、オーバーだし、咳き込みの時間が長すぎて不快さもありました。
セリフが聞き取れないような場面もあったくらい。

 

彼は地下通路に迷い込んだ直後が最も体調が悪そうに見えます。

そしてループのなかで試練を乗り越えていく旅に、復調していく。

自分の人生と向き合うことで、煉獄のような、苦しみの日々から解放されることが示唆されているようにも読み取れます。

 

この不調からの回復は、演出の一環として、意図して提示されているものです。

パンフレットの記載によると、当初は、通路を進むほどに体調が悪化するという設定にしようとしていたところを、二宮さんのアイデアで逆転させたのだそうです。

 

結果的に、この逆転が、物語の意味すらも反転させました。
むしろこうしなければ、映画として成立していなかったのでは?くらいまで感じます。

おじさんは、人生と向き合い損ねた人

おじさんは、試練を乗り越えないまま、出口から出ようとしました。

これは自分の問題や内面と向き合うことから逃げ出したと解釈できます。

 

迷う男の視点では、おじさんは地下通路に囚われた存在として描かれます。

外界の刺激を感じる心を失って、同じ日々をただ繰り返すだけの存在。

彼はもはや、自分ではその状況を脱することができません。

 

おじさんの存在は、日々の仕事に押しつぶされ、大切なものを守ることができなかった、人生を見失ったサラリーマンの成れの果てのようにも見えてきます。

そもそも、主人公と彼女はなぜ別れたのか

電話でのやりとりから、主人公と彼女は付き合っていたが別れたことがわかります。
理由はなんでしょう。

 

劇中で別れの原因は描かれませんが、おそらく2人の将来について真剣に考える彼女と幸福な家族像をイメージできない主人公との間ですれ違いがあったと想像できます。

 

子どもとのやりとりの中で、主人公には父親がいなかったことが明かされます。

彼は、育った家庭環境が原因で、幸福な家庭像や父親像を思い描くことができなかったのです。

もしかしたら、物語に入る以前のタイミングで、すでに彼は妊娠報告か検査にいく報告を受けていた可能性も考えられます。

この映画、どこからが幻想?

導入の演出的には、彼女の電話による妊娠報告を機に、徐々に異世界へと迷い込んだように見えます。

しかしラストシーンを考慮すると、電車に乗る前の時点で、すでに彼の心は迷宮入りしていたとも考えられます。

 

つまり、本作での非現実的な事象は、彼女から結婚を迫られて、精神的なトラウマが発動した彼の見た白昼夢だったとすると、物語の整合がスッキリするようにも思えます。

海辺のシーンは、主人公が思い描いた未来予想図

だからこそ、ゲームにもある、通路の奥から濁流が押し寄せるシーンは重要な意味を持ちます。

 

ここで主人公は、身を挺して子どもを助けるのです。
冒頭にあった、電車のなかでのサラリーマンの「罵倒」と、「ゴミ混じりの濁流」が重なります。

ここで子どもを守ろうとしたことは、彼なりに父親としての役割を受け入れて、まっとうしようとした結果とも言えるでしょう。

 

主人公が濁流に飲まれたところで場面転換します。


過去のような未来のような世界の海辺で、彼は、彼女と子ども(息子)と穏やかなひとときを過ごしています。

海辺での穏やかなシーンは、父になること、家族を持つことをイメージできなかった彼が、ようやく具体的な幸福のビジョンを思い描けた瞬間であったように感じました。


電車内での異変、今度は見逃さない

無事に8番出口を脱出した主人公は、改札を抜け電車に乗ります。
冒頭のシーンの再演です。

 

泣きわめく赤ちゃん連れの母親に、サラリーマンが激怒します。

うつむく主人公。

やはり見て見ぬふりをするのかと思った瞬間、彼がサラリーマンの方を向いて…、ここで映画は終幕します。

 

おそらく、彼は何かアクションをしたと想像させてくれます。
そしてこの後、彼女との関係にもきっと変化があるのでしょう。

 

ラストシーンではっきりと分かるのは、時間が巻き戻っていることです。
電車に乗る前の時間軸に戻っています。

 

つまり、あの地下通路での出来事は、非現実の世界で体験したことか彼の心象風景的なものを投影していると受け止めることもできるようになっています。

 

より皮肉っぽく解釈するなら、この世の中そのものが地下通路と同じような繰り返しの世界だと強調されているようでもあります
(一回目の彼は、罵倒される母親という“異変”を見逃したからいまやり直している)

多層的なアイデアで、「ゲーム性」と「映画性」を両立させている

ゲーム的な側面として象徴的なのが、通路や掲示されるポスターなど美術面のリアリティ。そして、「おじさん」の人工物のような存在感です。

 

このあたりは言わずもがなのクオリティで、原作を知っている人ならひと目見てニヤリとしてしまう部分だったと思います。次は何かなとワクワクしながら見られました。

 

そして、ここまで語ってきた、迷う男と彼を取り巻く世界設定です。
これが絶妙でした。

 

ゲームであれば、いきなり謎のループ空間にいてそこから脱出するだけの設定でも構わないでしょう。
しかし、映画では「なぜ、主人公は迷うのか」に、理由を与える必要があります。

 

本作では、繰り返す無味な日々や家族や子を持つことへの責任、子育ての厳しさなど、多層的にテーマが織り込まれていました。
どの辺りが琴線にふれるかは人により様々だと思います。

 

ただ、本来ゲームが持っている主体性(主人公=自分が動かす)を、物語的な共感によって、映画の世界に置き換えようと試みていたことは、本作のゲーム原作への最大限のリスペクトだったように感じられました。

本作が酷評されている件について

本作を酷評するレビューも一定数見ました。
実はそれもわかるなと思っています。
ここまで絶賛しておいてなんだよって感じですが、でも共感するところはあるんです。

 

この記事でつらつら書いてきたような多層的な要素が、もっときれいに噛み合って、太いストーリーラインを形成しているべきという考え方です。

本作はその点で言えば、かなり散漫になっているとも言えます。

 

パンフレットを読むと、最初からかっちり決めて撮るのではなく、その場で話し合いながら、撮り方や展開を調整しつつ柔軟に撮影されていたようです。

個人的には、その広がったアイデアを活かす撮り方をした部分が面白いと感じましたが、その部分に物語的な粗さを感じたとしても違和感はありません。

 

けっこう、好き嫌いのはっきりわかれる作品だと思います。
どっちに転ぶかは観てみないと分からないけど、その価値はある作品だと思いました。