映画『レジェンド&バタフライ』ネタバレ感想・考察です。ラストの本能寺での結末について、それを示唆する演出や信長と濃姫の対立構造についてなど解説します。

大友啓史監督の『宝島』がとても良かったので、同監督作品の、まだ観ていなかった『レジェンド&バタフライ』を鑑賞。
「キムタク×綾瀬はるか」ということで、前から気にはなっていたのです。
こちらも168分と、宝島ほどではありませんが、なかなかの超大作。
長時間ながら、これも面白かったです。
大友監督は、人生のダイナミズムをすごく素敵に描きますよね。
宝島はスポットライトが当たる人の数が多かったけど、本作は信長と濃姫にフォーカスされているので、よりその印象が強くなっていました。
以下、自分なりの本作の解釈や受け止め方について、書いていこうと思います。
- あらすじ
- 木村拓哉のセクシーさと、綾瀬はるかの凛々しさ
- 信長と濃姫の鮮やかな対比
- 信長を「レジェンド」と捉えたことの物語的な意味
- すれ違う2人は最期に通じ合い、同じ夢をみる
- ドラマティックな演出が秀逸
あらすじ
格好ばかりで「大うつけ」と呼ばれる尾張の織田信長は、敵対する隣国・美濃の濃姫と政略結婚する。信長は嫁いで来た濃姫を尊大な態度で迎え、勝ち気な濃姫も臆さぬ物言いで信長に対抗。最悪な出会いを果たした2人は、互いを出し抜いて寝首をかこうと一触即発状態にあった。そんなある日、尾張に今川義元の大軍が攻め込んでくる。圧倒的な戦力差に絶望しそうになる信長だったが、濃姫の言葉に励まされ、2人は共に戦術を練って奇跡的な勝利を収める。いつしか強い絆で結ばれるようになった信長と濃姫は、天下統一へと向かって共に歩み出す。
映画.comより一部抜粋
木村拓哉のセクシーさと、綾瀬はるかの凛々しさ
キムタクって、感情と行動が不一致な演技が昔から劇的に上手いじゃないですか。
言葉遣いは乱暴だけど、内面は優しいとか。
好きじゃないふうだけど、実は好きとか。
信長の天衣無縫で情に厚い部分と、信長として背負わなければいけない役割とのミスマッチが、木村拓哉節と合わさって、異常な魅力に昇華されていたと感じました。
観る前は、信長ってもうちょっとワイルドで渋めな俳優さんのほうがいいのかなと思ったけど、観始めたら全然良かったですね。
濃姫の綾瀬はるかも、物語から飛び出してきたかのような、強くて美しい姫そのものでした。
キムタクも同様なんですが、これは時代劇としてリアリティがあるのとは、また違います。
2人とも、リアルではなく、創作物としての魅力が強いという印象です。
信長と濃姫の鮮やかな対比
本作は時代劇というより、信長と濃姫の生涯を描いたロマンス物語と言ったほうがしっくりくる内容です。
史実としての「戦(いくさ)」は描かれますが、合戦のダイナミズムは描かれません。
政(まつりごと)による、人間ドラマが描かれるわけでもないです。
ひたすら、信長と濃姫の関係が、時代とともに移りゆく様が描かれます。
そんな中、2人の存在は、物語の冒頭から一貫して、対極的な存在として描かれていきます。
異国に憧れる濃姫

キジの狩りに出た際に、彼女は信長に、異国に行くことへの憧れを語ります。
(無意識に)自分の立場や役目を捨てて、運命から自由になることを求めていたのです。
最初は、濃姫本人もこの想いを自覚していなくて、最後の最後に、本当の自分の心に気づく展開になっています。
彼女は、他の信長の正妻のように、妻らしく主人に仕えることはしませんでした。
一方で、妻という型に上手くおさまれないことへの、もどかしさもあるように見えました。
魔王となった信長

対して信長は、自分の役割をまっとうする者として描かれます。
天下布武に向け、立ちはだかる敵を殺して覇道を突き進み、魔王となっていく。
彼は、大名としての役目をまっとうするのですが、自分本来の望みを見失い、覇道を進み続けることへの苦悩が滲みます。
濃姫と信長。
「役割を避ける者」と「役割を全うする者」とのコントラストが実に鮮やかです。
その対立軸のなかで、2人は相思相愛のはずなのだけど、すれ違ったまま時が過ぎ去り、ついにその時(本能寺の変)がやってきます。
ただ、最後のときが近づいてくるなかで、濃姫は元々の役目であった妻的になっていくし、信長は魔王の仮面が剥がれ、純粋に男として濃姫を求めることになります。
悲恋でありながらも、最後には純愛が成就する瞬間もあって、非常にドラマティックな物語として感じられるところです。
信長を「レジェンド」と捉えたことの物語的な意味
バタフライは濃姫が帰蝶とも呼ばれることがあるので、理解しやすいと思います。
じゃあ、信長のレジェンドは?
なんと言うか、信長をレジェンド(伝説)と評するのは粋ですよね。
日本人にとっては、確かに彼はレジェンド的な存在です。
ただ、タイトルの「レジェンド&バタフライ」には、物語に通底するメッセージも込められていると感じました。
帰蝶は、後世の人々が、濃姫を創作物のなかで描くときに使われたネーミングだと言われています。
そして、濃姫に関する歴史的な資料はあまり残されてはいません。
史実にはあまり残されていないからこそ、人々は彼女を自由に理想的なキャラクターとして描くことができたのでしょう。
物語としての彼女には、ある程度の自由が与えられている。
対して信長は、史実に残る伝説的な大名です。
彼を描くときに、史実を完全に無視するわけにはいきません。
信長は、信長のイメージに縛られ続けます。
キムタクを起用して、一瞬、新しい信長像が描かれたような雰囲気がした。
でも結局は、彼自身の運命から逃れられず、戦で人を殺して殺して、覇道を進んで魔王になり、最後には謀反を起こされ自害することになっていく。
これは、やや俯瞰した捉え方になってしまうのですが、自分には、信長が信長の役割から逃れられなかった物語のように感じられたところでもありました。
ポスターのキャッチコピーも意味深なんですよね。
『運命が、動き出す――。』
あえて「運命」と言っていることから、やっぱりこのあたりの構造を意識して描かれていたんじゃないのかなぁと、個人的には受け取りました。
すれ違う2人は最期に通じ合い、同じ夢をみる

信長がいよいよ死を覚悟したとき、蛙の置物を通じて、濃姫の琵琶の音が信長の耳に届きます。
そこからの展開は、これまでファンタジーよりな世界観だったからこそ、個人的には史実を飛び越えた展開にも期待してしまったのですが、それは文字通りつかの間の「夢」に終わります。
死の直前、信長と濃姫は同じ夢を見たのです。
物理的には距離の離れた2人が、本当の意味で結ばれる瞬間です。
だからこそ、このあと現実に引き戻された瞬間の「あぁ夢か」という落胆は、信長と観客がシンクロする場面。
この夢の回想があったからこそ、信長の死に際の告白と自害が強烈なインパクトを伴った終幕となるのです。
ドラマティックな演出が秀逸

濃姫と信長が通じ合うシーンはもちろんですが、蘭丸を家康の前で叩きつける場面や本能寺での最期の瞬間に抱きとめる場面など、エモーショナルな演出に心奪われます。
行軍するシーンで、死体にとまっていた蝶が信長にとまるのも、史実として信長の末路が分かっているからこその印象的なショットでした。
これは信長が死ぬというメッセージであり、彼の死に蝶(濃姫)が寄り添うラストシーンの暗示でもあります。
まさに「レジェンド&バタフライ」。心憎い演出です。
改めて、大友啓史監督の演出は私はけっこう好みです。
ダイナミックなドラマを描くのが、とても得意な監督だと思います。
本能寺のラストと、『宝島』の圧巻の暴動シーンは、それぞれの主人公の魂が解放される瞬間として、共通しているような感覚があり、2つの作品を流れで観たときにすごく面白く見えたところでもありました。
すれ違っていた心が、最後に結集していく展開も、両作品に通じるものがあると感じます。
本作も素晴らしい映画でした。これも劇場で観たかったなぁ。