『きみの鳥はうたえる』ネタバレ感想・考察です。本作のタイトルの意味や描かれるテーマについて解説しています。

地方都市を舞台にした、僕(柄本佑)と静雄(染谷将太)、佐知子(石橋静河)の3人の友情と愛情の三角関係の物語。
怠惰で心地良くも、あやういバランスの下に成り立つ、3人の関係から目が離せない、ほろ苦い恋愛ストーリーです。
本作は、セリフではっきり説明するタイプの映画ではないので、観た人によって気になるポイントは様々ありそうです。
以下、自分なりの受け止め方について整理しながら書いてみようと思います。
- あらすじ
- タイトルの意味をどう解釈するべきか
- 主人公に名前がないことと、タイトルの「きみ」との関係
- ナイーブで、小市民な「僕」
- 「鳥」の居場所はどこにあるのか
- “僕”の鳥はうたえない?
- 夏の終わり、モラトリアムの終焉
あらすじ

函館郊外の書店で働く“僕”と、一緒に暮らす失業中の静雄、“僕”の同僚である佐知子の3人は、夜通し酒を飲み、踊り、笑い合う。微妙なバランスの中で成り立つ彼らの幸福な日々は、いつも終わりの予感とともにあった。
映画.comより一部抜粋
タイトルの意味をどう解釈するべきか
原作小説では、物語とタイトルの明確なつながりが描かれています。
静雄の持っているレコードが、ビートルズの「And Your Bird Can Sing」なんだそうです。
日本語に直すと「きみの鳥はうたえる」ですね。
ただ、映画では静雄とビートルズを明確につなげる描写は出てきません。
小説を読んだ人が観たら、静雄がイヤホンで聞いている曲がそうなのかな、と想像するくらいでしょうか。
この改変を誠実に受け止めるならば、映画化にあたって、ビートルズとタイトルのつながりは重要ではないと判断されたと考えても良さそうです。
では、本作において、タイトルはどんな意味を持つのでしょうか。
主人公に名前がないことと、タイトルの「きみ」との関係

本作は珍しい設定で、主人公の名前が「僕」と表記されており、本編にも名前が出てきません。
これは、タイトルの「きみ」と呼応させるために、そうなっていると感じました。
「きみ」は、静雄のことを指していそうです。
そして「きみの鳥」は佐知子のことだと考えられます。
「きみの鳥がうたう」という意味をそのまま捉えた場合、劇中で、佐知子が静雄の前で歌を披露するシーンがイメージとして重なります。
また、「うたう」という言葉に「幸せに生きる」といったニュアンスがあると考えると、自分と付き合うよりも、静雄と付き合ったほうが彼女は幸せになれるだろう、という“僕”の卑屈さとも、タイトルがうまく通じている気がしてきます。
ナイーブで、小市民な「僕」

“僕”は、ナイーブな小市民として描かれているように感じます。
バイト先の同僚のような社会に媚びた大人にはなりたくない。
仕事に執着したくなくて、アルバイトも何となくサボったりする。
頭を下げるくらいならクビになってもいいから、店長にも謝らない。
ところが、そんな彼の面白いところは、たとえば道路を横断するときに、ちゃんと左右から車が来ていないかなど、周囲の様子は人一倍、観察して気にかけているのですよね。
“僕”は枠にハマりたくなさそうだけど、でも、根っこのところではとても常識人で、どうしようもなく小市民的なところがあります。
冒頭で、左右を確認せずに、さっさと道路を横断する静雄との対比は実に鮮やかです。
静雄は“僕”と異なり、倫理観を安々と越えてしまうような、危うさを宿していると感じました。
“僕”はとても慎重で、初めて佐知子から誘われたときも、その場で120秒数えて勘違いだったら立ち去ろう、と決めて心のなかで数を数えます。
バイトを無断欠勤する様子から、一見すると無神経な人間にも思えますが、実はその裏には、期待が裏切られて傷つくことを恐れるナイーブさも秘めているのです。
本作は、そんな“僕”の終わらないと思っていた夏のひととき、大人になりきれない“あわい”の時間を描いた物語になっています。
「鳥」の居場所はどこにあるのか

佐知子は元々、“僕”が働く本屋の店長と付き合っていました。
ただ、店長の細かい性格、束縛する性質と反りが合わなかったのでしょう。
そして、真逆のタイプである“僕”との関係がスタートします。
“僕”は、静雄と佐知子3人の、答えを保留したままの曖昧な関係に心地よさを感じており、関係を深めることには消極的でした。
佐知子にとって、“僕”は、自由で気楽な関係だけど、愛されているという実感は持てない関係であったように思います。
対して、静雄は佐知子との関係を深めることに積極的でした。
静雄は、彼女をカラオケに誘いキャンプに誘い、直接的には描かれませんが、おそらく彼から告白したのではないでしょうか。
佐知子と静雄は正式に付き合うことになります。
ただ、ラストシーンの佐知子の表情から察するに、静雄と付き合ったのは、“僕”のことを嫌いになったからではなさそうです。
“僕”が佐知子に対して、愛情を伝える言葉をかけなかったことで、彼女を不安にさせてしまったのだろうと思います。
思い返せば、“僕”は責任を負ったり約束したりすることが苦手で、代わりに抱きしめたりキスしたりという、その場しのぎの愛情表現で、佐知子との関係に対する返答を、先送りにしているように見えるときもあった気がします。
“僕”の鳥はうたえない?
佐知子から、静雄と恋人として付き合うことにした、と聞かされた“僕”は、
「静雄が母親を見舞って帰ってくれば、今度は僕は、あいつを通して、もっと新しく佐知子を感じることができるかもしれない」
「すると、僕は率直な気持ちのいい、空気のような男になれる気がした」
と、心の声で独白します。
これは、すぐ後に“僕”自身が認めることですが、佐知子は静雄といっしょになったほうが幸せになれると、彼が自分を納得させるためについた、自分への嘘ですよね。
実は、本作にはこの「自分といっしょにいないほうが、この人は幸せになれるかも」という、嘘の感情が、他にもいくつか描かれます。

たとえば、静雄と母親の関係がそうです。
母親は静雄といっしょにいたいが、それが彼を幸せにしないと思って普段は距離を置いています。
母親は自分がボケたら殺してと静雄に言いますが、これも本音ではないでしょう。
本心では息子に気遣われたいはずです。

本屋の店長が、彼女を大切にしろよと、佐知子のことを“僕”に託すのも、似たようなニュアンスを感じるシーンです。
話の流れから察するに、店長は離婚していることを佐知子には伝えていなかったみたいですが、ここで、彼にとって佐知子との関係が単なる火遊びではなかった可能性が示されます。
夏の終わり、モラトリアムの終焉
彼らの姿には、「フリーター」が流行っていた時代の地方都市の若者、という印象がしっくりきます。いい歳した大人がフラフラしている様子は、ひょっとしたら、若い人が観ると少し違和感を覚えるかもしれません。
佐知子のバイト仲間が、「若さって、なくなっちゃうものなのかな?」と話していたのが印象的でした。
社会人になりきれない大人が夢から覚めるのは、まさに「自らの若さ」が目減りしていることに気づいてしまった瞬間なのでしょう。
少なくとも佐知子はそうだった。

その直後に展開されるクラブでの交遊シーンは、差し迫る現実から逃避するかのようで、楽しげでありながら、ダウナーな空気に満ちていました。
佐知子と“僕”の様子をチラチラと伺う、クラブでの静雄(染谷将太)の演技は素晴らしかったですね。
さらに後に出てくるビリヤードの場面で、そんな静雄の視線が完全に変化して、佐知子に恋をしているのがはっきりわかる挙動になっていたのも見事でした。
感想の最初のほうで触れましたが、そんな静雄の変化に“僕”は気づきながらも、心地良い3人の関係を壊したくなくて、身動きが取れなかったのだろうと思います。

物語的には、受け身がちな“僕”が、最後に自ら行動を起こす姿が示されていたのは、彼のモラトリアムの終焉であり、一筋の希望のようにも感じられました。
彼が決意する少し前に汽笛のような音が響くのですが、あれは偶然じゃなく、彼の再出発の合図になっていたように思います。
と同時に、勇気を振り絞った“僕”の告白に対する佐知子の返事は、大人ならなんとなく想像がついてしまう。
佐知子の答えをはっきりと示さない終幕が、切ない余韻を残します。
“僕”は、告白をしたことで、愛情も友情も失うことになるのでしょう。
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